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1945年4月7日、沈没直前の大和=大和ミュージアム提供
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【連載】戦艦大和・最後の出撃を見送った男 第4回(最終回)〉

 太平洋戦争末期、一度に4千人以上が戦死した戦艦大和の沖縄特攻作戦は、昭和天皇が海軍首脳に「航空兵力だけの作戦か」と下問をしてから、わずか1日で決まったのではないか――。その根拠となる録音証言を残した連合艦隊参謀・三上作夫は1945年4月6日、出撃直前の大和に赴き、水上特攻部隊を指揮する伊藤整一と対峙(たいじ)します。三上は伊藤とどんな言葉を交わしたのか。録音証言で明らかになった「伊藤の最後の言葉」をたどります。

  • 第1回 「一参謀の独断専行」だったのか?戦艦大和・沖縄特攻巡るミステリー
  • 第2回 「もう、急きょ大和の特攻を考えた」元参謀が肉声で語った作戦の真相
  • 第3回 「「もう艦はないのか」苦戦のさなか、昭和天皇が期待をかけた戦艦大和

 1945年4月5日午後3時、戦艦大和を主力とする部隊の沖縄水上特攻作戦が決まった。当時、草鹿龍之介参謀長と共に鹿児島・鹿屋の航空基地に出張していた三上は、作戦の立案・決定には携わらなかったが、「辛(つら)い仕事」を命じられた。出撃直前の大和に赴き、特攻部隊を指揮する伊藤整一・第二艦隊長官を直接説得するように命じられたのだ。

出撃直前の大和に乗艦し、司令官と対峙

三上は水上艦艇の作戦立案を担当する参謀だった。かつて、伊藤から直接「最後の水上艦隊だから、無意味な下手な使い方はするなよ」「不均衡な艦隊だから、総合的にその威力を発揮出来るような使い方を考えよ」と言われていた。だが、この時に伝えなくてはならなかったのは、三上自身が「成功の算少なく」と考える特攻作戦だった。

 翌6日、三上と草鹿は水上機で山口県徳山沖に停泊中の大和を訪れ、大和艦内の長官公室で伊藤と対峙(たいじ)した。

 伊藤は特攻作戦になかなか納…

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