4月7日で戦艦大和が米軍機に撃沈されて80年となり、広島県呉市の旧海軍墓地では追悼式が開かれる。乗組員3056人が艦と運命をともにし、生還したのはわずか276人だった。史上最大の戦艦はなぜ造られ、どのような運命をたどったのか。
戦艦大和は排水量6万9千トン、全長263メートル、幅38.9メートル、46センチ砲9門を装備し、国外も含めて史上最大の戦艦だった。呉市の呉海軍工廠(こうしょう)で1937年11月に秘密裏に起工され、太平洋戦争開戦後の41年12月16日に就役した。
ミッドウェー海戦、レイテ沖海戦などに参加したが、海戦の主力は航空機へと移っており、大きな戦果を上げられなかった。航空機の優位性は真珠湾攻撃、マレー沖海戦で皮肉にも日本軍が証明したことだった。44年10月のレイテ沖海戦では姉妹艦の武蔵が米軍機の攻撃で撃沈された。
最後の出撃は45年4月6日。巡洋艦1隻、駆逐艦8隻とともに沖縄をめざした。沖縄本島への米軍の上陸が始まっており、艦を座礁させて砲台として使い、残った乗組員は上陸して戦うという特攻作戦だった。
7日は鹿児島県の坊ノ岬沖約200キロで米軍艦載機の波状攻撃を受けた。約2時間の戦闘で多数の魚雷、爆弾を受けた大和は午後2時23分に沈没し、大爆発を起こした。大和を含め、6隻が沈み、4千人以上が戦死した。
4月7日の追悼式は遺族らでつくる戦艦大和会が主催する。同会は現在、存命の生還者を把握していないが、大和の撃沈とともに亡くなった父を持つ元広島市立大学学長の藤本黎時さん(93)らが参列する予定だ。