Smiley face
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見学に来た若者といっしょに、完成したばかりのスイカの絵を手に笑い合った。前列右から鈴木宏子さん、徐類順さん、石日分さん=川崎市川崎区
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2030 SDGsで変える

 戦争を知る世代が減るなか、どうすれば戦争の記憶を多面的に継承してSDGs(持続可能な開発目標)の根幹である平和をつくっていけるでしょうか。日本が植民地支配していた朝鮮半島から様々な経緯で日本に来て厳しい暮らしを送ってきた女性たちの生き様を記録し、老いを支える試みから考えます。(編集委員・北郷美由紀)

ウリマダン(私たちの広場)の活動

 毎週水曜日。川崎市の社会福祉法人・青丘社の一室に、高齢の女性が送迎バスに乗って集まる。親しみと敬意を込めてハルモニ(おばあさん)と呼ばれる女性たちは在日コリアン1世で、ウリマダン(私たちの広場)と呼ばれる活動に参加している。

 日本では終戦記念日、韓国では光復節の前日の8月14日は、空襲で焼け野原になった川崎駅前の写真や、太平洋戦争末期に大勢の朝鮮人が動員されて犠牲者が出た、長野市の松代大本営の地下壕(ごう)を訪問した時の写真などを見た。

 参加したハルモニは8人。空襲で逃げ回った記憶や玉音放送を集まって聞いた経験が語られた。一度は帰国したものの朝鮮戦争が始まり、弟妹が次々に亡くなったうえ、家族が北と南で離ればなれのままだと話した人もいた。

 「戦争は絶対にダメ」と強調したのは石日分(ソクイルブン)さん(93)。引っ越しを20 回、10種類の仕事をして85歳まで働き、入院した病院でウリマダンを紹介された。「ここで勉強したり笑ったりして、心の豊かさを取り戻した。今が一番幸せです」

 川崎市南部の工場地帯には戦前、日本統治下の朝鮮半島出身の人たちが暮らしていた。戦後は仕事を求めて各地から移ってきた人も加わり、在日コリアンのコミュニティーが広がった。女性たちはそのなかで、子育てをしながら働きつめた。

 ウリマダンの源流は、川崎市による多文化共生の交流拠点「ふれあい館」の識字学級だ。戦中・戦後の混乱と貧困や、女子に教育は不要だとする当時の考え方で学ぶ機会を得られなかった人たちが、年をとり仕事を引退してから通い始めた。

 日本語の読み書きができないため差別を受け、屈辱的な思いを味わってきた。せめて名前や住所は書けるようにと、鉛筆を握った。仲間と出会い、ぽつりぽつりと苦労話もするように。そして覚えた文字で、封印してきた思いを作文につづった。

「わたしもじだいのいちぶです」

 在日女性の生活史であり歴史…

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