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復員後、故郷につくられていた自身の「墓」と記念撮影する記者の祖父・野田光春。手記では、墓に書かれた「命日」は「昭和十九年七月七日」とあるが、実際には「昭和十九年七月八日」となっている=家族提供

 「おじいちゃんは戦艦大和に乗ってたんだよ」

 戦後80年の夏を前に、どんな記事を書こうかと考えていたとき、ふと幼い頃に聞いていた話を思い出した。

 地方紙の新聞記者だった祖父は、私(40)が高校生の時に亡くなった。84歳だった。

 戦艦大和に乗っていたこと以外は、ほとんど祖父の戦争体験を聞いたことがなかった。今回の取材にあたり、「ハワイで捕虜になった」「大けがをした」など断片的な話を親から聞き、初めて知った。

 祖父・野田光春は、地方紙を退社した後、別の媒体にコラムを連載していた。1978年から95年にかけて500回近く書かれ、それをまとめた4冊の本がある。時事ニュースから趣味の話、家族の話などもあり、幼い頃の私も登場する。多岐にわたる話題のなかで、しばしば戦争に触れた回もある。

 今回、私は初めて祖父の著書「雑学かわら版」(新いばらきタイムス社)シリーズと「路地うらの雑学かわら版」(自費出版)を手に取り、祖父の戦争の記憶をたどった。

 祖父は1918年、水戸市で生まれた。海軍に入隊し、連合艦隊司令部付で戦艦「長門」「大和」「武蔵」に計3年半ほど乗っていた。真珠湾攻撃を率いた連合艦隊司令長官・山本五十六の部下で、攻撃を事前に知っていた数少ない一人だった、との記述もある。

 戦後、故郷に戻ると自分の墓があったという。

 コラムにこうつづっている。

 《実は、私は〝帳面ヅラ〟ではいっぺん死んでいる。昭和二十一年一月、復員してみると水戸の菩提(ぼだい)寺に墓ができていた。三寸格の戦時規格品の墓碑には「海軍上等主計兵曹 故野田光春之墓」、側面には「昭和十九年七月七日 於中部太平洋方面戦死」と書かれてあった(すぐ墓碑は撤去したが、記念写真は撮ってある)》

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