東日本大震災から4日後の2011年3月15日午前。東京電力福島第一原発では2号機の格納容器の圧力が急低下した。この時、壊れた格納容器から大量の放射性物質が漏れたと考えられている。
風はまず南へ、次第に西へ。プルーム(放射能雲)が北西にたなびいたところで、降雨で地上に沈着した――。
そこは福島県浪江町の津島という地区だった。
原発の北西に広がった汚染地域の真ん中に位置する津島の大半はまだ帰還困難区域で、住民は避難している。被災前の人口は約1400人だったが、今は役場支所近くを中心に20人が暮らしている。
地区の住民ら640人が、原発事故に対する国と東京電力の責任を問い、再び暮らせるようにする原状回復を求めた「津島訴訟」は、2015年の提訴から10回目の正月を迎える。
今年最後の審理が12月4日に仙台高裁であり、同県大玉村に避難する住民で、元教諭の馬場靖子さん(83)が意見陳述した。
趣味で始めたカメラで被災前からの津島を記録し続け、今年10月に写真集を出した。被写体のうち17人が避難先から帰れぬまま故人となった。住民に慕われた「靖子先生」は裁判長をみすえた。
「忘れてはならないのは、生…