《前編》「ABC予想は証明されたか」
今から5年前、数学の超難問「ABC予想」は証明された……とされる。はっきり断定できないのは、ABC予想をめぐって数学界が異常事態に陥っているからだ。論理的に考えれば同じ結果になるはずの数学の世界で今、何が起きているのか。興奮と冷笑、反発を経て、混迷の時代に突入したABC予想の現在地を、2回の連載で振り返る。
突如公表、望月論文の衝撃
興奮の始まりは、2012年8月30日だった。4編の英語の論文が突如インターネットに公表された。超難問として有名なABC予想が解決されたらしい――。論文の存在は、世界中の数学者に驚きと共に伝わっていった。
英科学誌ネイチャーは「証明が正しければ21世紀の数学の最も驚くべき業績の一つ」と紹介。英テレグラフ紙は「世界一難しい数学の問題がついに陥落した」と報じた。
論文を書いたのは、当時43歳の望月新一氏(56)。京都大学数理解析研究所の教授に32歳で就いた天才だ。
- アニメで解説「ABC予想 世紀の難問 – たし算とかけ算の謎に迫る」
京大数理研は、数々のスターが在籍した日本の数学研究の中心だ。「数学を考えながらいつの間にか眠り、目覚めた時にはすでに数学の世界に入っていないといけない」と語った佐藤幹夫氏(1928~2023)や、「ウォール街で最も有名な日本人」と言われた確率論の先駆者、伊藤清氏(1915~2008)、「数学のノーベル賞」と言われるアーベル賞を受賞する柏原正樹氏(78)らが所長を務めた。
望月氏は、斬新な論文を発表する数学者として、その筋では名が通っていた。
ABC予想は、1、2、3……と無限に続く整数論の問題で、1985年に2人の数学者によって提案された。足し算とかけ算の大きさを比べる一見単純な問いだが、整数の根幹に切り込む重要な予想で、2千年以上の歴史を持つ整数論の中で「最も重要な未解決問題」と言われていた。
「世紀の難問」と思われていたのに、わずか30年あまりで解けたとすれば、フェルマーの最終定理(95年解決)、ポアンカレ予想(2006年解決)に続き、その証明者には数学界最高のフィールズ賞級の賛辞が約束されていた。
「どこが分からないのかさえ分からない」
ところが、興奮は冷めていった。論文が難しすぎて理解できなかった。
証明に用いたのは、望月氏が…