新京成電鉄への感謝の言葉が並んだメッセージボード=2025年3月27日、千葉県松戸市、若井琢水撮影

 新京成電鉄(本社・千葉県鎌ケ谷市)が今月末、約78年の歴史に幕を下ろす。4月1日に親会社の京成電鉄(本社・市川市)に吸収合併され、新京成線の名称は「京成松戸線」に変わる。県北西部の発展に貢献してきた歴史を振り返るとともに、今後どのようなあり方を目指すのかを京成電鉄と新京成電鉄の小林敏也社長に聞いた。

 「ピンクの車両がいつも走っていると思っていたのでさみしいです」「思い出がありすぎて書ききれません。人生最大の推し。ありがとう」

 今月、松戸市役所に設けられた新京成電鉄に感謝を伝えるメッセージボード。市によると、新京成にまつわる思い出話や感謝の言葉が800人以上から寄せられたという。

 沿線で暮らす市内の高校生、相本紘汰さん(16)は「先進的な技術を積極的に導入していて、誇れる会社。小さい頃から大好きで、なくなるのはかなり悲しいけど、新京成の良さが少しでも京成に受け継がれてほしい」と思いを語った。

 新京成線は、旧日本陸軍の鉄道連隊が使用した演習線が起源となっている。「新京成電鉄五十年史」によると、戦後、京成電鉄に入社した元鉄道連隊関係者らが、連合国軍総司令部(GHQ)などを相手に使用認可を得て、1946年に新京成電鉄を立ち上げた。

 その後は、戦後の経済成長も追い風に事業を拡大していった。

 47年の新津田沼―薬園台(2・5キロ)の開通を皮切りに路線を延ばし、55年に全線開通(未開業の駅あり)。バス事業を拡大しつつ、日本住宅公団(現在の都市再生機構=UR都市機構)による常盤平団地(松戸市)開発計画などにも協力し、現在の経営基盤を築いていった。

 60年代ごろは輸送力の強化や施設整備などを進め、60年代に初の黒字を達成。70年代には、津田沼でイトーヨーカドーなどが出店する「津田沼12番街ビル」などの大型開発を複数手がけ、業容を拡大していった。

 ただ、鉄道の輸送人員は94年度の約1億1700万人をピークに徐々に減少。沿線開発が頭打ちになった上、東葉高速鉄道の開業などの影響で成長が止まった。近年は、沿線団地の高齢化などの課題も抱えている。

     ◇

 新京成電鉄が吸収合併されるに至った経緯と、今後の展望について、同社と京成電鉄の小林敏也社長に話を聞いた。

 合併計画の引き金となったのはコロナ禍で、外出自粛要請によって人の動きが止まり、鉄道やバスを軸にするグループ全体が打撃を受けたという。

 小林氏は「予想していなかった事態でも、公共輸送を守るためには(グループ企業が)一つの固まりになるほうが適している」と判断。新京成の合併を含めたグループ再編を決めたと説明する。

 合併のメリットに、鉄道の利便性向上を挙げる。合併により、京成線と新京成線の2路線間で始発や終電への接続が円滑になる上、互いの車両が乗り入れることで、乗り換えなしで行ける範囲が広がる。毎秋のダイヤ改定に合わせてこうした取り組みを進める方針で、小林氏は「早ければ今秋の改定から取り組む」との考えを示した。

 新京成線の利用客からは、象徴的なピンク色の車両の存続を望む声が寄せられている。小林氏は、コスト面から「(京成線と)統一せざるを得ない」と理解を求める一方、周年イベントなどで新京成線のラッピング車両を走らせる考えも示した。

 新京成については「京成よりも規模が小さい分、意思決定が速く、現場やお客さんとの密着度合いが高い」と評価する。

 新京成では、利用客が自由に意見を書くことができるはがきを各駅に用意し、顧客の声を反映することでサービス向上につなげてきたという。小林氏は、合併後も同じ取り組みを継続するかは「検討中」としつつ、「新京成の良さは残す。ワンカンパニーとして、お互いのいいとこ取りをして、ワンランク上の仕事をしていきたい」と話した。

     ◇

 〈新京成電鉄〉 1946年設立の私鉄。新京成線は、県北西部の習志野、船橋、鎌ケ谷、松戸の4市にまたがって運行し、京成津田沼―松戸の26・5キロメートルを結び、全24駅ある。年間に9千万人以上が利用する。合併後も、運賃・料金、ダイヤは変わらない。特徴的なピンク色の車両や駅設備は随時、京成電鉄のカラーリングに刷新される予定。

共有
Exit mobile version