「旋盤に取り組む」金子静枝画(「あかね雲―五十年前の空の下で―戦時勤労動員女学生の証言」淑美会編から)。「私は右手で回していましたが、まさにこんな感じでした」と馬場あき子さん

 先の大戦を振り返るとき、歌人の馬場あき子さん(97)は、明け方の空を見上げ、一人、絶望に沈んだ時のことを思い出す。その空は、学徒動員先の工場で見たものだった。空襲は激しさを増し、死は日常の隣にあった。「もうどうなってもいい」。それでも馬場さんは、ともに旋盤を回した友人から長唄を教わり、心の中で体制に抗(あらが)いながら口ずさんだ。戦後80年を迎えた今年、体験を語ってもらった。

「決して好意を持ってはいけません」

 1936年に二・二六事件が起きてから、ずーっと戦争が続いていたような感覚で、その間学校で勉強したかといえば、勤労奉仕と兵隊さんのお見舞いばかり。

 代わりに、家にあった日本文学全集は全部読みました。世界文学全集で最も感動したのはモーパッサンとアナトール・フランス。回し読みしていたモーパッサンの「女の一生」を落としてしまったら、英語の先生がそっと新聞紙にくるんで「落とし物よ」って渡してくれた。本当は「女の一生」なんて読んじゃいけないのよ。

 歌もね、与謝野晶子は駄目。恋愛感情が生まれちゃうから。戦争中、恋愛されたら困るでしょ。相手は戦死してしまうかもしれないから。動員先にも大学生のお兄さんたちがいましたが、「親切に一生懸命教えてくれるけど、決して好意を持ってはいけません。あの人たちは兵隊さんとして戦地に赴く人たちです」って教えられたの。

 《ジュラルミンの熱き切子(きりこ)を返り血のやうに浴びて造りき特攻機エンジン台座》

 太平洋戦争末期の44年になると、中島飛行機武蔵製作所(現東京都武蔵野市)に動員され、六尺旋盤を回すようになりました。戦闘機に取り付ける発動機(エンジン)の台座を作っていたんです。昭和高等女学校の5年生の時でした。

 六尺は約182センチで、大きな機械よ。戦争末期だったから、特攻機のエンジンの台座だったのではないかと思うと罪深い思いがしますね。

 台座は楕円(だえん)形で丸い穴が開いていて、ぴかぴかのジュラルミン。台座をしっかり持って、旋盤に取り付けられた刃物に角度を合わせ、回転させながら角を取る面取りをやっていると、金属の破片を返り血のように浴びて、ほんと熱いんです。手なんてやけどだらけよ。

 《八時間旋盤まはしし女学生の足はほてりて象の足なり》

 我々は「象の足」って言って…

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