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写真・図版
林篤志さん=本人提供

連載「台湾少年工の戦後」番外編

 太平洋戦争後期、台湾から日本に渡り、戦闘機の製造にあたった約8400人もの台湾少年工たち。東京大在学中に彼らを取り巻く環境を研究し、2022年に「台湾少年工 戦闘機を作った子どもたち」(日本橋出版)を刊行したのが、日台研究者の林篤志さん(30)だ。戦後80年を迎える今夏、彼らの存在に光をあてる意義について聞いた。

 ――研究のきっかけは?

 東京大で歴史学を学んでいた17年、交換留学で1年間、台湾大に留学しました。日本に一時帰国した際の飛行機で偶然、隣に座ったのが(連載第3回で登場した)元少年工の東俊賢さん(95)でした。機上で台湾少年工の話を伺い、そんな歴史的事実があったのかと驚きました。

 その後、月に1度、東さんに面会し、他の元少年工たちからも話を聞きました。

 その中で、彼らの存在をしっかりと後世に伝えるためには、彼らの「記憶」を「記録」として残す必要があると考えました。元少年工たちの手記はいくつか存在するのですが、彼らが働いた高座海軍工廠(こうしょう)は日本海軍の施設ですし、日本側における資料の読み込みや民間人の調査などが不可欠です。帰国後、それらを調査し、まずは20年に東京大の卒業論文としてまとめた後、北海道新聞の記者として働きながら、22年に書籍化しました。

【連載初回から読む】台湾から来た8400人

 先の大戦中、戦闘機を造るため台湾から日本へやってきた「少年工」たちがいた。戦後80年。いまや東北を訪れるインバウンドの約半数が台湾からの宿泊客が占めるようになるなど、日台交流は盛んだ。その土台にもなった、台湾少年工たちの80年を追う。

 ――台湾少年工をどう捉えていますか?

 極めて特異な存在だったと思います。まず戦争後期に、約8400人もの少年たちが台湾から日本に送られたという事実そのものが特異です。終戦直後に日本にいた台湾人は約4万人だったという推計があり、その約2割が少年工たちだったことになります。

 質的に言えば、彼らは日本で…

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