【動画】花火師たちの言葉=室矢英樹撮影
連載「HANABI」第10部 花火師たちの言葉(1)
小松忠信さん(61)は1年前の「大曲の花火」(秋田県大仙市)で頂点に立った。なぜ、北の大地に花火が息づいたのか。「日本一の花火師」の言葉に耳を澄ませた。
花火は火薬からできるよね。
戦国の時代、常陸国(茨城県)を治めていた佐竹は関ケ原の戦いで中立的な姿勢を取ったことで、徳川に出羽国(秋田県)へ国替えさせられた。
佐竹には優秀な鉄砲隊がいた。ビジネスも同じだけれど、競争相手がいると先手を打つもの。いつ戦が始まるか。徳川が攻め込んでくるのか、自ら攻め込むかもしれない。佐竹は城がある秋田市の南の大曲などを拠点に火薬を扱える者を置いた。火薬、後の花火につながる出会いだね。
江戸時代になると、米どころの大曲は北前船で全国とつながる。船が着くと、狼煙(のろし)を合図に農家が「大曲の花火」の会場になる雄物川に集まり、コメを積んだ。火薬の原料になる硝石も入ってきたんだろう。
春は豊作を祈願し、秋は豊作に感謝する。火薬を扱う技術が、やがて神社の奉納花火に。地主や豪商がタニマチになり、火薬を扱える者に「もっと良い花火を」と競わせたと伝わっている。
大曲に鉄道が敷かれたのは1904(明治37)年。5年後、当時の知事が東京の新聞記者を招待し、花火で歓迎して大曲をPRした。10(明治43)年に「大曲の花火」の前身となる「奥羽六県煙火共進会」が始まった。
大曲は内陸部にあるけれども、開放的な土地柄といわれる。外とのつながりを大切にしてきたことに由来すると思う。
終戦1年後の46(昭和21)年には早々に大会が復活している。街中が喜びにあふれていたそうだ。
花火は戦に始まり、商売、平和の象徴へと変わっていったんだよ。交流の歴史が大会を生み出したともいえるね。
大曲の業者は4社。これに4社も出資する「花火創造企業」がある。人口が10万人にも満たないまちに、これだけの花火師が集まるのは日本中でここしかない。
4社でつくる「大曲の花火協同組合」で一緒に打ち上げるときがある。今年の大阪・関西万博がそう。12時間以上かけ、4社一緒にトラックとワゴン車で駆けつけた。
「もう、いいや」と思われた瞬間に
満員のお客さんに混じって、無線で打ち上げの合図を出したんだけれども、そばから歓声、拍手に包まれて、あんなにうれしいことはなかったな。
3年後、大曲の花火は第10…