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【動画】いま津軽弁はどう話されているのか、現地を訪ねて人々に話を聞いた=鳴澤大記者撮影

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1929年刊行「大阪市産業大観」にある「心斎橋筋船場側北出時計店」。大正か昭和初期の様子を撮影したものとみられる。当時は「船場言葉」を話す商人たちがこの地で生活もしていた=大阪市立図書館デジタルアーカイブ
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現場へ! 全国方言サバイバル④

 「『船場(せんば)言葉』は消滅危機ではなく、消滅しています」

 ビルや店舗がひしめく大阪市中心部の「船場」。豊臣秀吉が京都などから集めた商人が店を構えたその一角では、かつて品格ある独特な話し言葉が使われたという。

 だが大正時代以降の開発のあおりで、船場の商人は阪神間などに住まいを移した。

 関西大の日高水穂教授(56)は「船場言葉の用法を正確に踏まえて話す生活者は転出し、少なくとも昭和中期までに消えた」とみる。

 上方落語に名残がある。落語家の桂春雨さん(60)は「とにかく丁寧な言葉。長屋の住人同士が話すような言葉ではありません。商家の話で、若旦那や丁稚、番頭が話す時に出てくる言葉ですね」。

 芸能史研究家の前田憲司さん(65)によると、「昭和初期の落語の速記をみると、ございますは『ごわす』とか『ござります』なんです」。犬同士が船場言葉で話す落語「鴻池の犬」もあるという。一方で船場言葉は昭和初期の段階で「何というか、キャッチーな昔ながらの大阪弁使うとりますよ、という表現であって、もうその時点で滅んでしまっているような言われ方をされていたようです」という。

 度々テレビ番組などに登場する青森県の津軽弁。色濃い話者を求めて山深い西目屋村を訪ねると、出会った住民からこう言われた。「『○△※』みたいな字幕が必要なお年寄りと会うのは、宝くじぐらい難しいよ」。実際、ほかの場所と同じく、きれいな共通語を話す高齢者も多かった。

 「俺(お)ら東京さ行ぐだ」で一世を風靡(ふうび)した歌手の吉幾三さんの地元、五所川原市。竹内恭一さん(87)は「テレビの影響で自然に標準語(共通語)になってる」と感じているという。

 「いま標準語と半々ぐらい。同じ年齢同士でさ、話す時は、ぱぱぱっと津軽弁出てくるんだけども、その津軽弁の中さ、なまってる標準語も入っちきちる。自分でもそう思ってるも」

 吉幾三さんの兄、飲食店経営…

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