1945年1月27日、空襲を受ける銀座。右奥に服部時計店(当時。現在のセイコーハウス銀座)の時計塔が見える=日本写真公社国防写真隊撮影、東京大空襲・戦災資料センター提供

 東京・銀座や有楽町の繁華街に爆弾が投下された「銀座空襲」から27日で80年となる。1945年3月10日の「東京大空襲」前から、都内各地では工場や市街地を狙った米軍の空襲が始まり、多くの人が亡くなった。

 この日は土曜日だった。午後2時すぎ、空襲警報の直後に空襲が始まった。マリアナ諸島から飛来したB29爆撃機から500ポンド(約250キロ)爆弾が次々と投下された。

 有楽町駅では、駅中央部に爆弾が直撃。「東京都戦災誌」によると、爆弾2個により退避中の乗客ら70人以上が亡くなったという。同駅近くの現在の泰明小学校にも爆弾が落ち、4人の教師が犠牲になった。

 現在の有楽町マリオンの場所にあった朝日新聞社と日本劇場との間の道路にも落ち、吹き上げられたコンクリート片は同社の屋上に散乱したという(朝日新聞社史)。

 時計塔のある服部時計店(旧和光本館、現在はセイコーハウス銀座)や銀座三越が立つ銀座4丁目交差点付近も大きな被害を受けた。

 銀座5丁目の「鳩居堂(きゅうきょどう)」前の道路では、地下鉄銀座駅の入り口付近に爆弾が落下。大きな穴が開き、道路下の地下鉄が不通になった。

 服部時計店の建物は、爆風によって時計塔の文字盤が破損した以外は大きな被害はなく、改修工事などを経て現存している。

1945年1月27日の空襲で大きな被害が出た銀座と有楽町。しかし、米軍の第1目標は別の場所でした。一方、日本側も首都を守るため激しく応戦します。

1945年1月、名古屋市上空に飛来した米爆撃機B29と日本軍機の空中戦

 同戦災誌によると、この日の…

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