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焼香台で手を合わせる斎藤宏さん(手前左)と妻の紀代美さん=2024年9月1日午前10時39分、埼玉県上里町、恒川隼撮影
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 101年前の1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災では、直後の混乱の中で埼玉県内でも多くの朝鮮人が民衆によって殺害された。そのうちの一つ、県最北端の上里町では1日、同町神保原町の安盛寺で慰霊祭があった。70年以上続くこの催しが始まった背景には、事件を目撃した当時22歳の青年団長の尽力があった。

 午前10時過ぎに始まった慰霊祭には、山下博一町長や在日韓国・朝鮮人の団体などの約70人が参加。朝鮮人犠牲者を悼み、慰霊碑の前で焼香した。山下町長は「悲劇的な出来事を再び繰り返さない」と誓った。

 この慰霊碑は、52年4月に建立された。当時の賀美村(後に神保原村などと合併し上里町に)の村長だった伊藤浜五郎さんが県内に住む朝鮮人から依頼を受け、神保原村長らと協力して建てたものだという。

 震災当時22歳だった伊藤さんは、青年団長として賀美村とその隣村の神保原村で起きた「神保原事件」を目撃した。

あちこちから「ぷっ殺してしまえ」

 「上里町史」(98年)によると、9月4日、避難しようとしていた朝鮮人が乗ったトラックが群馬県への通過を拒否され、県境の神流川の河原に置き去りにされた。民衆が朝鮮人に暴行を加えはじめたので一時的に賀美村役場に収容したが、本庄方面に送り返そうとしたトラックが神保原郵便局前で遮られ、約40人が虐殺されたとされる。

 伊藤さんは自伝「追憶の記」に、殺気立つ民衆とそれをいったん制止した賀美村長や消防組頭の姿などを自らの言葉で記録していた。

 「『ぷっ殺してしまえ』とい…

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