第80回大会準々決勝で17回を完投した横浜の松坂投手にアイシングのサポーターを巻く理学療法士

日本高野連の元事務局長が語る「高校野球半世記」

 全国高校野球選手権大会創設時の目的は、野球を通じて健全な青少年を育成することです。

 初めて救護班を設置したのは第2回(1916年)でした。前年の第1回で広島中の選手が負傷し、近所の病院へ担ぎ込んだことがきっかけです。

 第8回(22年)からは健康証明書を出してもらうことになりました。朝日新聞大阪本社医師の診察で、(けがなどで)「危険」と認めた選手の出場を差し止める規則も設けました。

 大会本番は理学療法士のサポートが欠かせません。

 第76回(94年)で8強に進出した高校の投手が、試合後のインタビュー中にふくらはぎのけいれんを起こしました。クールダウンをしっかりできていなかったと指摘されたのです。翌年から理学療法士に協力してもらい、試合後のストレッチやアイシングをしてもらうようになりました。検診で未然に防ぐと同時に、試合後のケアも大事です。今では地方大会でも定着しています。

 夏の甲子園は、日程に合わせて1日約10~15人、延べ約160人の理学療法士に支えていただいています。試合前はテーピングだけでなく、ベンチ入り20人分のチェック表を作成します。熱中症対策として睡眠の程度や、朝食を食べたかなど複数の質問をして、健康状態に異常がないかを確認します。

 試合中はスタンドから選手を見守り、不自然な動きをしていないかなど観察します。試合前は健康だったとしても、甲子園独特の緊張感もあって足がつってしまう選手も少なくないのです。

 故障を防ぐために延長回数も短くなっていきました。58年の春季四国大会で徳島商の板東英二投手が準決勝で十六回、2日後の決勝で二十五回を一人で投げきり、さすがに「投げすぎだ」という話になりました。

 すぐに規定が設けられ、この年の夏から延長は十八回までとし、同点なら引き分け再試合になりました。

 第80回(98年)の準々決勝では横浜(東神奈川)の松坂大輔投手がPL学園(南大阪)を相手に十七回まで投げ、準決勝では先発しませんでした。

 それを見た私は、障害予防でお世話になっていた大阪大医学部の越智隆弘先生に電話をしました。「甲子園で勝った翌日にエースを投げさせないチームがやっと出てきた」と。今ではよくあることですが、そんなことに感動した時代でした。決勝の京都成章戦で松坂投手がノーヒット・ノーランを達成して優勝したのは本当にすばらしかった。第82回(2000年)から延長は十五回に短縮し、現在では十回からタイブレーク制が導入されています。

 過去に大会中の投げすぎで、投手生命にかかわるようなけがをしてしまった選手もいました。その反省を生かし、大人が責任を持って歯止めをかけることが球児の健康につながると思うのです。

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 日本高校野球連盟の事務局長や理事などとして半世紀にわたり、運営に携わってきた田名部和裕さん(79)が、高校野球の歴史を振り返ります。

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