大統領就任式前日の集会で演説をするトランプ氏=2025年1月19日、米ワシントン

政治学者・東島雅昌さん寄稿

 筆者のアメリカでの在外研究もあと数カ月。昨年8月にシアトルに滞在をはじめてからの1年は、アメリカ社会の大きな変化を間近に見つめながら、その実態を考察する貴重な機会となった。

 トランプ氏の再選、政権による移民排斥と自由民主主義への攻撃は、アメリカの民主政治を重大な危機にさらしている。国際的には、途上国の民主化や貧困削減に大きく貢献してきたこれまでの外国支援から、アメリカは事実上、手を引いた。保護主義的な関税政策や安全保障体制の再編は、戦後80年にわたって築かれてきた「リベラル国際秩序」の根幹を大きく揺るがしている。

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 こうしたアメリカ政治の変容は、明示的であれ暗黙的であれ、日本にも確実に影響を及ぼしていくだろう。社会にじわりと広がる排外主義と、それを掲げる政治勢力の今夏の参議院選挙での躍進は、アメリカで進行する暗転と響き合っているようにも見える。

「ソフト化」された独裁に陰り

 そうした現実政治を横目に筆者はこの間、古代から現代までの権威主義体制の歴史と変化を概説する新書の執筆に取り組んできた。そこで明らかになってきたのは、冷戦後の独裁体制が、かつてのナチズムやスターリニズムのように暴力と抑圧で人々を強制的に従わせるのではなく、国民の「自発的支持」を引き出す巧妙な統治技術へと変貌(へんぼう)してきたということだ。

 その背景には、暴力や不正が生み出すコストについて学習し、これを回避しようとする独裁者たちの行動変容がある。加えて、冷戦後に強まったアメリカを中心とした民主化支援や圧力に適応し、生き残りを図った側面も見逃せない。

 もっとも2010年代に入る頃から、こうした「ソフト化」された独裁に陰りが見え始め、抑圧と強権への回帰傾向が各地域で顕在化してきたのも事実だ。先進国における民主主義の機能不全、民主化支援の退潮、中国やロシアといった「権威主義大国」の対外関与の増大、がもたらしたものと言えよう。

 古今東西のさまざまな独裁体制を比較していくと、「独裁者」の代名詞ともいえるドイツのヒトラーについても当然、考察することになる。ただ、ナチズムの支配は現代の独裁制の統治様式とは似て非なるものだ。

 たとえば、ナチス政権は徹底した検閲体制を敷いた。これに対し、現代の独裁者たちは検閲の対象を戦略的に選別し、目立たぬ形で情報統制をおこなう。プロパガンダの手法も違う。現代の独裁体制では、もっともらしい報道に都合の良い情報を紛れ込ませ、民意の操作を図る。一方、ナチスのプロパガンダは体制の強大さを誇示し、指導者への畏怖(いふ)を植えつけることを主眼としていた。

 また、現代の多くの独裁国家では、形式的にではあれ野党の選挙参加が許されている。ヒトラーは選挙で政権を獲得した直後に野党を弾圧し、やがて競争そのものを廃止した。暴力や弾圧の行使が日常的に体制の支配基盤を支えていた点も、ナチ体制は現代の独裁制と異なる。今日の独裁者にとって、露骨な暴力の行使は最後の手段であり、通常はあの手この手で市民の支持を獲得しようとする。

 日本でもアメリカでも、為政者を「ナチ」や「ファシスト」と重ねて批判する言説が散見されるが、両者のあいだには決定的な隔たりがあるのだ。

現代に通じる戦間期のメディア状況

 他方、ナチスが政権を掌握する以前、1920年代のドイツ社会に見られた特徴には、現代の民主主義が直面する危機と重なる点もある。ナチズム研究の第一人者、リチャード・J・エヴァンズ教授の著書『第三帝国の到来(The Coming of the Third Reich)』は、ナチスが1933年に権力を握るまでの過程を読み解く優れた入門書である。邦訳も刊行されており、関心のある方にはぜひ手に取っていただきたい。

 なかでも筆者の目を引いたのは、いわゆる戦間期である1920年代のメディア状況に関する記述である。当時のドイツでは、新聞や雑誌といった活字メディアが急速に発展し、言論空間は一気に拡張し多様化した。一方で、こうしたメディアは社会の分極化や民主的制度への不信を深める装置としても機能した。わけても、ときに大手新聞を上回る発行部数を誇った「大衆紙(boulevard papers)」は、無数の小規模な版元から刊行され、娯楽報道と並んでセンセーショナルな記事や陰謀論に基づく情報を流布し、反ユダヤ主義や反民主主義的言説を広く拡散する役割を担った。

 エヴァンズによれば、これら…

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