21世紀になって四半世紀となる今年は、戦後80年、昭和100年の節目にもあたる。不確実性が高まるいま、歴史とどう向き合い、過去に学ぶべきなのか。歴史の学び方、論じ方を問い直してきた歴史学者の成田龍一さんと、専門家の限界を疑い、歴史学者「廃業」を宣言した気鋭の評論家・與那覇潤さんの論客2人に聞いた。
なりた・りゅういち 51年生まれ。歴史学者、日本女子大名誉教授・日本近現代史。著書に「歴史像を伝える」「歴史論集1~3」「近現代日本史と歴史学」など。
よなは・じゅん 79年生まれ。評論家。大学で日本近代史を教えたのち離職。著書に「中国化する日本」「平成史」「知性は死なない」「史論の復権」など。近著に「江藤淳と加藤典洋」。
歴史が希薄化、機能しなくなっている
練達の歴史学者と、学界への違和感から歴史学者をやめた気鋭の論客の対話。歴史の節目を節目として論じにくい、という現状認識の一致からやりとりが始まった。
1995年、村山談話。2005年、小泉談話。15年、安倍談話。戦後50、60、70年の節目に歴代首相が歴史認識を語ってきた。
戦後80年の今年はどうなるのか。與那覇さんは「戦後70年に比べて戦後80年は盛り上がっていない」。昭和史や戦後史の叙述にはこれまで戦争の惨禍や責任と向き合う切実さが伴った。しかし「誰にでも戦争体験が身近で、自分ごとだったのは25年間くらい。80年、100年となると『懐かしさ』と区別がつかなくなる」と與那覇さん。
成田さんは、そうした距離感を認めた上で、戦後の時代状況を「あの愚かしい戦争を誰が始めたのか。戦死者を目の前に、戦争責任をめぐる生々しい問いがあった。圧倒的な『悪』に翻弄(ほんろう)されたという意識のもと、歴史の実在を感じ取っており、『戦後』をアイデンティティとしていた」。以来80年。「歴史が希薄化し、今までのように機能しなくなっている」と指摘する。
平成は、もはや「戦後・後」の時代にあり、同時代史としての戦後史の枠内で描くのは難しい。
成田さんは、21年に著書「平成史」を出した與那覇さんに「『平成』を歴史として描く困難に取り組んだ。戦後を自明のものとし、共有する感覚からの離陸があったのでは」と問いかける。
戦後史や昭和史に比べ、平成史は手応えがない
與那覇さんは、戦後史や昭和史に比べた平成史の手応えのなさを「同じ時代を生きた人同士でも、何を体験したのかが分からず、言葉にできない」と表現する。「95年の戦後50年を転換点として、昭和の記憶が遠ざかるごとに、共通の世代感や歴史認識が失われていく。今や一つ屋根に暮らす家族ですらスマホの画面で違うものを見ている」と話す。
戦争や戦後はあった。東西冷戦の切迫した危機もあった。でも「冷戦が終わると、何を体験したのか、何が現実なのかがあいまいになった」と成田さんも言う。
與那覇さんは「総力戦の下では国民自身が戦時体制を支えていった。しかし、戦後の議論は国民一人一人の責任を置き去りにした」と指摘する。
成田さんも「帝国内部の反戦や民主・自由の動きも、植民地側の抵抗も、戦争の一コマとなる。単純な二項対立の歴史認識では不十分」と認める。光は影を生み、影により光が際立つ。「国家主義への統合と抵抗は、峻別(しゅんべつ)しがたいグラデーションを織りなす」
丸山、高坂、司馬像のジェネリック化が起きた
與那覇さんによれば「戦前の軍部や冷戦下の米ソなど、わかりやすい批判の対象を共有できない平成は、実はハードな時代だった。何と戦えばいいのかが分からないから、社会の雰囲気が悪くなると陰謀論やネットリンチがはやる。とりあえずこの基準なら尺度としてみんなに通じるというベンチマークが消えてしまった」。
加えて96年に丸山真男、高坂正堯、司馬遼太郎が世を去る。「冷戦下の文脈に加えて冷戦後を視野に入れていた3人の思想のつまみ食いが起きた」と成田さん。儒学や国学の議論が幕末・維新期を準備したように、70~80年代にポスト冷戦の議論が積み重ねられていた。「古典を読むのは現在地を知るため。丸山の思想史の読みは強い緊張感をはらんでおり、決して懐古趣味ではなかった」。與那覇さんは「戦前をけなせば正義だというジェネリックな丸山像、リアリストを気取れば知的だとするジェネリックな高坂像、明治維新は元気をくれるというジェネリックな司馬像が流布し、単純化が起きた」と独特の表現で同意する。
戦後日本を引き受ける左派と…