お座敷で瀬戸内寂聴さん(右)のとなりに座る吉村薫さん=吉村さん提供

吉村薫さんに聞く③

 1973年、瀬戸内寂聴さんは51歳のときに岩手・中尊寺で得度した。付き添ったのは実の姉をはじめ、限られた数人だけ。京都・祇園のお茶屋「みの家(や)」の女将(おかみ)だった吉村千万子(ちまこ)さんもそばにいた。晩年、認知症になった千万子さんの介護に追われた娘の薫さん(74)を、寂聴さんは励ましてくれた。

  • 連載「寂聴 愛された日々」の第1回「秘書の瀬尾まなほさんが語る 寂聴さんのおちゃめで好奇心旺盛な日常」はこちら
  • 連載「寂聴 愛された日々」のまとめはこちら

 ――得度のときのことを教えてください。

 先生のお姉さんと、金貸しをして財をなした中島六兵衛さん、それに母が付き添いました。母は娘の私にも一切、出家のことを話しません。荷造りを手伝いましたが、「中島さんと旅行にいく」と言うだけです。「それなのに、なんで紋付きを持っていくの」と聞いたのですが、ノーコメントでした。

 私は先生の得度をニュースで知り、ほんまに驚きました。京都に戻ってきた母に「先生は、どないなさったの?」と聞きましたが、母は「大変な覚悟やったんや」とだけ言って、だまっていました。

 ――寂聴さんは得度後、比叡山延暦寺で修行しました。

 母は、一緒に修行している若い僧侶の分もあわせて、差し入れにリンゴを持っていきました。修行を終えると中島さんの家で、「おめでとうさん会」を開きました。尼僧になられた先生に私がお目にかかったのは、このときが初めてです。とてもかわいらしく、若返ったと思いました。生まれ変わるって、こういうことを言うんですね。

母が認知症に

 ――その後の寂聴さんとの関わりはどうでしたか。

 みの家には、作家や編集者を連れてきてくださいました。「京都に来ませんか」と先生が誘って、みの家で遊び、母が営んでいた旅館に泊まる。もちろん費用は先生が払われます。

 荒畑寒村(かんそん)さん、永井龍男さん、ショーケンこと萩原健一さん……数えきれませんね。もちろん、井上光晴さんもお見えになりました。

 ――薫さんは、いつからみの家を手伝うようになったのですか。

 21歳で結婚するちょっと前、祇園でスナックを始めました。カウンター8席と、4、5人が座れるボックスシートが一つのスナックでした。

 でも、たしか92年だったと思いますが、信頼していたお客さんから「こんな小さなスナックで遊んでいる場合ではない。お母さんをほったらかしちゃ、あかん」と言われました。それで、93年の正月からみの家に入りました。

 ――どうしてですか。

 母は70歳を過ぎたころから、認知症の症状が表れ始めていたんです。入院もしたのですが、廊下でおしっこをしたり、夜中にとなりの病室の患者さんを起こして「旦那さん、旦那さん、今日は何を飲みやすか」と聞いたり。

 母は長年、お茶屋をしていたので夜になると元気になります。みの家にいるときは三味線の音が気になり、部屋のベッドから起きて、宴会の部屋をのぞきこんだこともありました。

「私が力になります」と寂聴さん

 ――寂聴さんは、どんなことをおっしゃっていましたか。

 「しっかりものの女将さんが、まさか……」とショックを受けておられました。そのあとも色々とあったんです。母はバブル期に手を広げすぎ、借金がだいぶ残っていました。旅館を売ったのですが、それでも億単位の借金がありました。

 介護も大変で、みの家を閉めようと考えました。先生に相談すると、「それだけはやめなさい。お母さんが大事にしたところだから。私が力になります」とおっしゃってくださいました。先生は何もかもわかってくださいました。

 ――千万子さんの晩年はいかがでしたか。

 だんだんと食べられなくなりました。97年5月、先生がみの家にお座敷をかけてくれました。連れてきたお客さんや芸妓(げいこ)さんをタクシーで帰したあと、2階の母の部屋に寄って、母の手を握ってくださいました。

 そのとき、ベッドの母が目で私を呼び、「先生のおつむ、なでたい。ええかな」と聞くんです。先生に伝えると、母の目の前にひょいっと頭を出してくれはりました。母は何度も先生の頭をなでました。その顔が、ほんまにうれしそうで。

 先生は母の部屋を出て階段を下りる途中、泣き崩れました。「会わせてくれて、ありがとう。もうだめね、もうだめ。覚悟しなさい」

 1週間後に母は旅立ちました。

 ――寂聴さんは、どうされましたか。

吉村さんには、忘れられない寂聴さんの言葉がいくつもあります。記事の後半で吉村さんが語ります。

 仮通夜、通夜、お葬式と3日…

共有
Exit mobile version