明かりを消した街に爆音が響く。防空壕(ごう)で肩を寄せ合う家族。静かに遺書を残す兵士たち。
あの日を知る人は少なくなりつつある。しかし、戦争の夜を照らした月は、いまも変わらず空にある。同じ月夜の下で、80年前に生きた人々の記憶をたどった。
毒ガスの島に吹いた風
広島県竹原市沖の瀬戸内海に浮かぶ大久野島。風が吹く夜、雲間から満月が見え隠れする。
ここに毒ガス工場が造られたのは1929年だった。日中戦争が始まる1937年には大量の兵器が必要となり、極秘にイペリットやルイサイトなどの毒ガスが製造されていた。
夜を徹して稼働する工場。
作業は、常に危険と隣り合わせだった。防毒服を着ていても皮膚のただれや呼吸器疾患が相次ぎ、死亡事故も発生した。
製造量がピークに達したのは、太平洋戦争が始まる1941年。島は製造過程で発生する化合物などの臭いに包まれていた。
「毒ガスは血を流さぬ兵器。だから人道的なのだ」。そう聞かされて、作業に従事した人もいた。
敗戦とともに、毒ガス兵器は中国に大量に遺棄された。何も知らない現地住民が、工事の際に掘り返すなどして、甚大な被害をもたらした。
ガイドとして島の歴史を伝え続ける元高校社会科教諭の山内正之さん(80)は、訴える。
「ここは、加害の歴史についても深く考える場所。たとえ体験者が生きていなくても、この地に足を運び、遺跡の前で積極的に知識を求めていく姿勢が大切なのです」
日本は、太平洋戦争の開戦初期こそ連戦連勝だった。しかし、1942年ミッドウェー海戦で主力空母を喪失し戦局が一変。以後、ガダルカナルなどで敗北を重ね、制空・制海権を失うと、1944年には本土空襲が本格的に始まった。
そのような中で生まれたのが、「特攻」だった。敵に体当たりして確実な損害を与える自爆攻撃。生還を前提としない作戦だった。
帰らぬ空へ飛んだ若者たち
旧日本海軍の香取航空基地(千葉県旭市)からは、本州初となる神風特攻隊が硫黄島へ向けて出撃すると決まった。
上弦の月が空に浮かぶ頃、壮行の宴が開かれた。
学徒出陣し庶務主任となって…