100年をたどる旅 沖縄編 柳宗悦

「100年をたどる旅~未来のための近現代史」沖縄編⑤

 東京・駒場の閑静な住宅街にある「日本民藝(げい)館」には、戦前に沖縄で使われた焼き物や織物、漆器など約1600点が収蔵されている。太平洋戦争末期の沖縄戦で失われた民芸品を、今に伝える貴重なコレクションだ。

 設立は1936年。初代館長を務めたのは、生活の美を追究した「民藝運動」で知られる柳宗悦(むねよし)(1889~1961年)。沖縄だけでなく、アイヌや朝鮮、台湾などを訪ね、人々の生活に根付いた民芸品の美的価値を、近代化が進む日本社会に知らしめた。

 柳は戦前、沖縄を計4回訪れている。初回は1938年12月、49歳の時だ。国家総動員法が公布されたこの年、県に招かれ、陶芸家の河井寛次郎らと沖縄を見て回り、「何もかも目新しく、印象は極めて新鮮であつた。有名無名などには関係なく、心を惹(ひ)くものを自由に漁(あさ)った」と著書に記している。

 興奮冷めやらぬまま、2カ月後に2回目の訪問をする。より多くの美術家や研究者を引き連れて沖縄の民芸を調査し、地元工芸家とも交流した。「琉球が如何(いか)に私達(たち)よりも優れたものを有(も)つているかを見たが故に、それを栄えしめたいという希(ねが)いを起(おこ)した」

 ところが、40年1月の3回目の訪沖で、地元から思わぬ批判を受ける。のちに、民俗学者の柳田国男や詩人の萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)ら文化人も巻き込む議論となった「沖縄方言論争」だ。

 発端は、県の観光協会などが主催した「観光座談会」で、柳ら一行と地元経済界や警察官僚らが行った対談だった。

「一家そろって標準語」への柳の疑問、そして県民からの反発

沖縄方言論争について報じる当時の沖縄朝日新聞の記事=那覇市歴史博物館提供

 柳は、沖縄で当時推し進められていた県民への標準語励行運動に対し、「標準語を使う事に反対ではないが、琉球の言葉をおろそかにしてはいけない」と訴えた。これが翌日の地元紙で取り上げられると、運動を進めていた県役人だけでなく、一般県民からも反論がわき起こった。

 ある県役人は地元紙に「愛玩…

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