那覇市の国際通りから徒歩10分の場所にある歓楽街・松山地区。地域の人や観光客などが行き交う街は、華やかさと喧騒(けんそう)に包まれていた。通りの外れに、1軒のジャズバーがある。ビルの1階、オレンジ色のランプに照らされた鉄扉の内側から、サックスの軽快な音が響く。カウンター席から触れられる距離に、トランペットやサックス、トロンボーンなどの楽器が並ぶ。
私がこの店を初めて訪れたのは、学生だった4年前。偶然知り合った地元の男性に「那覇で一番のジャズバー」と紹介された。
「ジャズライブイン寓話(ぐうわ)」。店主の屋良成子さん(78)が朗らかな笑顔で話しかけてきた。「いい音でしょ?」。
沖縄では戦後、米軍統治下にジャズが流入し、「ウチナージャズ」と呼ばれる文化が育ちました。米軍統治や日本復帰など沖縄が歩んできた歴史の片隅で、音楽を愛する「ウチナーンチュ」たちに紡がれてきた80年をたどります。
吃音に悩み、音楽家を夢見た
46年近い歴史のある店は、成子さんの夫で沖縄を代表するピアニストとして知られた屋良文雄さん(享年70)が開業した。
文雄さんが音楽に興味を持ったのは小学生の頃だった。幼少期から吃音(きつおん)に悩み、自分の殻に閉じこもるようになった文雄さんは、「人と話さなくても食べていける仕事」として音楽家を夢見ていた。何より、ピアノを弾いている時は、自分の気持ちを音に乗せられる感覚があった。
琉球大学入学後、大学でピアノを練習する傍ら、米軍基地で演奏をするようになった。本土や国外からミュージシャンが集まる華やかさにひかれた。「沖縄だけど別世界のような感じ。ずっと憧れがあったんだと思う」と成子さんは話す。
1972年の沖縄返還後、基地での仕事は途絶え、市内のホテルやクラブなどで演奏した。ジャズだけでなく、歌謡曲など頼まれた曲は何でも弾いた。
そんな時、人生を変える出会いがあった。
「人まねをするな」 ウチナージャズの誕生
世界的に著名なジャズピアニ…