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 1998年に埼玉県立松山高校歴史部(当時)の顧問だった黒沢栄さん(77)は、校内に残されている戦時中の「教務日誌」から、旧制松山中学校の生徒が勤労動員された場所や人数を調べた。全体像は把握できなかったが、戦車のエンジン部品などを製造していたヂーゼル機器(東松山市)や、横河電機製作所(川越市)など少なくとも8市町に最も多い日で約600人が動員されていたことが分かった。

 教務日誌は「学校日誌」とほぼ同一の内容で、主に教頭など管理職が生徒の出欠状況や行事を記録したものだ。23(大正12)年、松山中として開校した松山高校は、旧校舎を改修した教育資料館に、戦前戦後の17冊を展示している。

写真・図版
松山高校に保存されている「教務日誌」

 45年度の日誌は10月を挟んで2冊ある。8月15日には、戦争の終結を告げる放送を教職員と登校していた生徒が聴いたことが書かれている。2日後の17日には、勉学に専念するように校長訓示があり、11月には、進駐軍が駐屯したことも分かる。

「勉強が恋しかった」軍需工場で働き奪われた学び 旧制中の勤労動員

この記事の前編はこちらのリンクから。動員で奪われた学びを、体験者が語ります。

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