1945年7月14日、米軍機は、青函連絡船と函館の市街地を攻撃した。80年が過ぎた今も、あの日の記憶が輪郭を保ち続ける。
空襲前日の13日夕、吉村征子(せいこ)さん(87)は、玄関で父の沼田亨(とおる)さん(当時35)を見送った。第四青函丸船長だった父は、玄関を出て何歩か歩くとおもむろに振り向き、戻ってきた。
1枚の紙を母の房子さんに渡した。それは吉村さんが学校のくじ引きで当てた靴の購入券。航海から帰ったら街で靴を買うつもりと話していた父だったが、「戻ってこられないと困るから」と言った。
もともと、父が乗船する日ではなかった。当番の船長が休暇をとり、代わりに乗ることになった。身重だった母は不安を口にしたが、父は「誰かが行かなければならない」と仕事へ向かう。
第四青函丸は米軍機の攻撃を受け、沼田亨船長は壮絶な最期を遂げます。そして空襲の被害は函館山のふもとのまちにも及びました。山へ逃げ込んだ住民が見たものは…
鉄かぶとを肩にかけ、ゲート…