長崎空港(長崎県大村市)は5月1日、1975年の開港から50周年を迎える。大村湾に浮かぶ箕島を埋め立てた、当時としては画期的な海上空港。大根が特産だった島の住民の暮らしは一変した。
「長男で農家を継ぐのが当たり前だと思っていた。この先どうしていけば、と感じた」
元島民の山口敏実さん(73)は空港建設計画を父から聞かされた時の思いを振り返る。当時の大村園芸高校で農業を学び、実家の手伝いに入ったばかりだった。
島には13世帯が住み、ほとんどが農業で生計を立てていた。島内に大根畑が広がり、箕島大根の漬けものは特産品だった。
空港建設構想は69年に県議会で公表された。70年の大阪万博を前に、地方でも航空路線の需要が高まっていた。当時の大村空港(現在の海上自衛隊大村航空基地)では、普及が進みつつあった大型ジェット機の離着陸が難しかった。
一方で、ジェット機の普及により、空港周辺の騒音は社会問題にもなっていた。海上空港は二つの課題を解決する案として、全国的に注目された。
祖父の万作さん、父の実さんは、島の小学校の講堂で開かれた県との交渉によく出かけた。当時の久保勘一知事の姿も何度か目にした。敏実さんは出席することはなかったが、多くの住民が反対していることは知っていた。
一家の決断と、その後
「先祖代々の土地がなくなる…