アジア・太平洋戦争の敗戦から間もない1945年10月、神奈川県逗子市(当時・横須賀市)の旧日本軍の砲台跡で爆発事故があり、遊んでいた15人の子どもが命を落とした。事故は公表されなかったが、在野の研究者が地道に調査し、15人目の名前を近年明らかにするなど実相に迫った。80年を迎える今年、犠牲者全員の名を刻んだ石碑が建てられる。
「熱いよ」と叫ぶ子ども 3人は海に落ちた
事故に遭った84歳の男性が今回、初めて取材に応じた。当時4歳で、頭にやけどを負った。
兄と、同居していた13歳の少年が一緒だった。砲台の上にいた兄は背中にやけどを負い、少年は翌日亡くなった。「戦争の残りのもので大勢が犠牲になった。子どもたちは戦争の被害者だった」。家族間で事故の話は出ず、兄は後に「話すのが怖かった」と振り返った。
目撃していた90代の男性も今回、初めて取材に応じた。砲台があった洞窟から約100メートルの相模湾で、おじのイナダ漁を手伝い、ろをこいでいた。
「爆発音がして見ると、山の洞窟いっぱいの炎が見え、やけどをした子ども3人が両手をブラブラさせて『熱いよ、熱いよ』と歩いていた。爆発は3回あり3人が海に落ちた」。複数の友人が亡くなったという。
事故は非公表 記録もなし
戦争末期、三浦半島には砲台などの軍事施設が築かれた。逗子市小坪の洞窟砲台は、山の中腹に艦船迎撃用に15センチカノン砲2門が海に向かって置かれた。
敗戦後は砲台としての機能を失って米軍の管理下にあり、物資が不足するなか、米兵のいない時に住民がしらすをゆでるための木材などを探しに出入りしていたという。
「砲がボタン一つで動き子ど…