80年前の大阪大空襲で逃げ惑う中、母と祖父と生き別れた。2人の名前が記された大阪市内のモニュメントの前で手を合わせると、いつも涙があふれる。母たちとどこで離れてしまったのか。その思いは今も消えない。
「起きなあかんよ!」
1945年3月13日深夜、姉の声で目が覚めた。大阪市西区北堀江の自宅2階で、国民学校6年で12歳だった近藤豊子さん(91)=大阪府豊中市=は寝ていた。空襲警報が聞こえた。
家族は、祖父母と両親、きょうだい5人の計9人。祖母に連れられ、弟と妹と外に出た。母の芳江さんは、足が不自由な祖父に付き添って少し後ろを歩いていた。
一番上の姉の光江さん(故人)が戦後に書いた文書がある。それによると、豊子さんたちは防空壕(ごう)がある北側に行きかけたが、火の激しさで向かえず、南へと歩いた。
豊子さんは途中、かぶっていた防空頭巾を母が防火水槽の水にぬらし、かぶせてくれたのを覚えている。それが目にした母の最後の姿だった。
合流した父から「母さんは?」と聞かれ、「後ろ」と言って振り返ると、そばにいたはずの母と祖父の姿は見えなかった。
「西の方は全滅だ」聞こえる叫び声
豊子さんたちと合流して母た…