DRTは積み重ねた災害対応の経験を若い世代に伝えていく場でもある。鈴木さんは「危険が伴う現場だからこそ、若い人が緊張しないような雰囲気づくりを考えています」と語る。春原さんは「五感をフルに使って吸収したい。力になりたいから」=2024年10月、石川県輪島市、川村直子撮影
全国で頻発する災害で、発災から間もないうちに、重機や資機材とともに駆けつけるボランティアたちがいる。発災直後に、土砂で埋もれた道路を通したり、倒壊家屋から車両や貴重品を取り出したりするだけでなく、泥につかった家屋の再生、屋根の修繕、倒れ込んだ木々の伐採など、中長期的に住民の困りごとに寄り添う。声を上げにくい人の声に耳を傾け、生業(なりわい)や地域のよりどころの復旧といった、公的支援が行き届かない場所に目を向ける。
災害支援ネットワーク「DRT JAPAN」は、そうした全国の技術系ボランティアたちが、互いに連携するハブ(中心)のひとつだ。
昨年1月の能登半島地震直後から、7月に起きた山形県北部豪雨の復旧支援を挟み、ほぼ毎日、活動を続けてきた。
手弁当で災害支援を続けることは容易ではない。それでも支援に入るのは――。DRTに集う人たちの横顔を追った。
大船渡の山林火災で消火活動にあたった消防士、航空宇宙のエンジニア…。さまざまな人たちが、能登半島地震の被災地で、支援にあたってきました。その横顔を、上下の2回に分けて紹介します。
「なすすべがなかった東日本大震災」 稲富慎二郎さん/消防士(宮城県)
2011年、消防士になって5年目に起きた、東日本大震災。宮城県の消防士、稲富慎二郎さんは、家族を内陸部に残し、泊まり込みで沿岸の捜索活動にあたった。津波で流された倒壊家屋や車の中を、ひとつひとつ覗(のぞ)いては退き、がれきの上を歩く日々。「命を救うため消防士になったのに、なすすべがなかった」
19年には、県南部を台風19号が襲った。東日本大震災をきっかけに全国の消防に重機が配備され、その操縦訓練を積んだ稲富さんは、オペレーターとして現場へ向かった。
だが、重機の使用許可は下りず、活用できる場面で動けなかった。
もどかしさを抱えていたとき…