人が誰かを思う心は、言葉ではなく沈黙によって伝わることもある。
7月9日、東京・将棋会館。
第84期B級2組順位戦2回戦。
彼は戸辺誠との未知なる力勝負に完勝し、通算1千勝の節目に到達した。
感想戦を終えた時はもう深夜0時に近づいていた。
節目の一勝を手にしたのはデビューから35年後の順位戦だった。将棋の郷田真隆九段(54)は今月9日、史上13人目となる公式戦通算1千勝に到達した。棋士養成機関「奨励会」で同期の羽生善治九段(54)、森内俊之九段(54)、佐藤康光九段(55)らと覇権を争い、A級在位通算13期、タイトル獲得通算6期。剛直、一刀、格調、長考。AIが席巻した現代においてもなお、己の美学を貫く棋士の実像に迫った。あの時、なぜ言葉を失ったのか――。
午前10時の対局開始から約14時間。
常識では計ることのできない戦いだが、順位戦にはありふれた夜だった。
記者数人の取材に応じる彼はいつもと変わらず淡々としていた。
勝負の現場で声を弾ませることも表情を緩めることも、流儀ではないのだ。
「偉大な先輩が作られてきた記録と思っていたので実感はないですが、長くやらせていただいて良い節目になりました」
「35年かけて自分の将棋が成熟してきたことは間違いなくあります」
「誰も取材に来なかったら1人で晩酌でもしようと思っていたんですけど」
静かに質疑が交わされた最後の時。
「伝えるとしたら」と問われると、迷わず言った。
言った後で、ふと無言になっ…