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【動画】94歳で活躍する狂言師の野村万作さんが、空襲で家を失った日や終戦の日の記憶を語った=井手さゆり撮影

 狂言の人間国宝・野村万作さん(94)は、14歳のときに東京で終戦を迎えました。あれから80年。あの頃のことを知る人の話を残したい。そう水を向けると一気に話してくれました。

 《江戸時代から続く狂言の家に生まれた。父も祖父も狂言師。3歳で初舞台を踏んだ》

 東京の巣鴨で生まれ、祖父について稽古を始めました。商店街の外れにある田端に引っ越したのが、5歳のときです。

 2階建てで、庭には鉄棒がありました。1階には居間や稽古場、父母の部屋があり、祖父の隠居部屋もありました。父は狂言師でしたが、能面を彫るのも上手で、面を打つ部屋が2階にありました。

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子ども時代の野村万作さん(前列右)と祖父の初世萬斎(前列中央)、父の六世万蔵(後列左)=1937年、東京・田端の稽古場、万作の会提供

 祖父は稽古が終わると「よくできたよ」と言ってお小遣いをちょこっとくれる。

 甘やかされた稽古でした。

 《万作さんが6歳のときに祖父は75歳で亡くなった》

 祖父の死後は父に稽古を受けるようになりました。

メンコやベーゴマ、遊び中断して稽古

 父の稽古は厳しかった。近所で遊んでいると探しに来るんです。

 当時の遊びといえば、メンコやベーゴマ、竹馬、あとはトンボとり。野原や路地で友達と遊んでいると、父に見つかって、「稽古だ」と言って耳を引っ張って連れて帰られました。そしてお稽古をするんですけれど、子どもが遊びを中断されて「お稽古だ」って言われても、あんまり気が乗らないから、覚えられない。

 覚えられないと叱られる。叱られるとまた覚えられない。やがて父はあきれかえっていなくなっちゃう。そうすると晩ごはん時になる。その頃には父の母である祖母が、「晩ごはん、おあがりなさい」と呼びに来てくれる――。

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インタビューに答える野村万作さん=2025年2月13日、東京都文京区、ジョナ・エルコウィッツ撮影

 そんな繰り返しでした。

 その家から小学校や中学校に通いました。運動が得意で、相撲は強いし、鉄棒はうまいし、クラスの大勢といっぺんにけんかするくらいの元気のよさがありました。

 《1941年、10歳の時に太平洋戦争が始まった。その後、現在の東京都文京区にあった旧都立第五中学校に進学する》

 将校が中学に来て、軍事教練…

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