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聞きたかったこと 広島

 覚えているのは真っ白な光と爆音、遺体を荼毘(だび)に付す炎だけ。遠い記憶を頼りに版画作品を作り続ける。

 1945年8月6日の朝、広島市矢賀町(現・東区、爆心地から約3.8キロ)にあった自宅の前で、同年代の友達と遊んでいたことを安佐南区の中垣満さん(83)は覚えている。当時はまだ3歳。ドーンという爆音と共に、視界が真っ白になった。自身にけがはなかったが、家に入ると、窓ガラスが粉々に割れて室内に散らばっていた。

 母と2歳下の弟は、広島市街地の病院へ向かおうと、早朝から出かけていた。母に背負われて広島駅にいた弟は顔と背中にガラスの破片が刺さるけがを負った。小さな傷痕は今も背中に残っているという。

 もう一つの記憶は、遺体を焼く炎と独特な臭いだ。夜、家の中から外をのぞくと、担架に乗って運ばれてきたけが人が道端に横たわっていた。生きているのか、亡くなっているのかもわからない。遠くでは、川の土手で遺体を火葬する炎がぼんやりと見えた。

 それ以上のことは、ほとんど覚えていない。家族の間でも「話してはいけない雰囲気」を感じ、原爆を話題にしたことはなかった。あの日、遺体を焼いていた川の土手はいつしか桜並木に変わっていた。

原爆ドームに描いた無数の顔

 自身の記憶と向き合うようになったのは、つい最近のことだ。4年前、ふと「あの日のことを残しておかなければ」と感じた。「年と共に、ということでしょうか」。原爆に関する本を読み、自身の記憶を元に版画作品を作り始めた。

 高校時代はデザイナーを目指し、工業デザインを学べる大学を受験したほどだ。2浪したが合格はかなわず、進学した広島大医学部では美術部に入り、外科医となった後も趣味で油絵を続けた。棟方志功や名嘉睦稔(ぼくねん)の作品に引かれ、後には独学で版画も始めた。

 原爆を描くと決めたとき、「一番、象徴的な場所」としてテーマに選んだのが原爆ドームだった。「原爆ドーム 〝怨霊〟」という作品では、力強い線でドームの骨組みを描写した。隙間から無数にのぞくのは人の顔。原爆死没者の霊や、原爆孤児をイメージした。

 今年8月、広島市南区の「GALERIE青鞜」で展示会「中垣満の世界 平和とは」を開催。原爆ドームを題材とした版画などを10点ほど並べた。彩色したアクリル板を重ねる「クリアグラフ」という手法を取り入れた作品もあり、透明感と立体感が目をひく。

 ギャラリーの代表で、中垣さんと40年以上のつきあいがある有田志津香さん(68)は作品の魅力を「重いテーマを扱いながらも、恐ろしさを前面に出していない。色選びなどの感性が素敵で、ギャラリーや自宅などになじむ」と語る。

 今、被爆80年となる来年の展覧会に向けて、原爆や平和をテーマにした新作を準備している。「原爆ドームを、ありきたりでない方法で表現するのは難しい。自分のライフワークです」(魚住あかり)

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