京都市民の生活に欠かせない琵琶湖疏水(そすい)が国宝になる見通しとなった。滋賀の琵琶湖から引いた水は京都市内の水道水の99%に使われる。その始まりは京都の近代化の立役者であり、今も京都の美や観光を支えている。

蹴上インクラインと台車に載せられた舟=京都市左京区、新井義顕撮影

 近代の土木構造物として初めての国宝になる施設は五つ。三つの隧道(ずいどう)(トンネル)、蹴上にある傾斜鉄道のインクライン、南禅寺の境内にあるれんがの橋の水路閣(すいろかく)。いずれも明治時代の1888~90年につくられた。

 この大事業を進めたのは第3代の京都府知事・北垣国道。当時の京都は、明治天皇が東京に遷(うつ)り、衰退していた。人口も大きく減っていた。

 北垣は「京都ノ繁盛ヲ維持セン」との願いを込め、疏水による京都の復興をめざした。今の東京大工学部を卒業して間もない田辺朔郎(さくろう)を工事の担当に抜擢(ばってき)した。琵琶湖疏水記念館(京都市左京区)の学芸員の久岡道武さんは「今で言えば、新社会人に整備新幹線や国際空港をつくれと言っているようなもの」と話す。

南禅寺水路閣=京都市左京区、新井義顕撮影

 一方、「琵琶湖の水位が下がると困る」といった反対の声もあった。滋賀県の第2代の県令・籠手田安定(こてだやすさだ)について記された資料には「(琵琶湖は)神の創り給うたもの。その水を干すようなことはできない」「京都は鴨川の水でたくさん」などと述べたとされる記述が残っている。

 大阪では、疏水の水が淀川に流れることで淀川の水位が上がり、洪水の懸念が示されたという。

南禅寺水路閣=京都市左京区、新井義顕撮影

 だが、京都を救う一大プロジェクトとして疏水の建設は進んだ。1890年、第一疏水ができた。大津市から京都市へ至る第一隧道は全長2444メートル。当時の国内最長で、完成までに約4年半かかった。扁額(へんがく)を揮毫(きごう)したのは、明治の元勲の伊藤博文や山県有朋(やまがたありとも)だ。

 翌91年には、疏水の水を使った日本初の事業用水力発電所の運転が始まった。ここでつくられた電力は京都の産業を復興させた。日本初の電気鉄道の開通につながり、織物や時計・たばこ製造の発展にも貢献した。

 疏水によって舟運も栄えた。活躍したのが、傾斜を利用した鉄道のインクラインだ。

蹴上インクライン=京都市左京区、新井義顕撮影

 琵琶湖側の船だまりと、京都側の船だまりには約36メートルの高低差があり、舟が進めなかった。そこでインクラインをつくり、舟を台車にのせ、ケーブルカーと同じ原理で斜面を行き来させた。

 インクラインの全長は582メートル。当時は世界最長の傾斜鉄道だったが、1948年に稼働を停止した。今では桜の名所として知られる。

南禅寺水路閣=京都市左京区、新井義顕撮影

 疏水は「庭の美」ももたらした。南禅寺水路閣の近くにある国名勝の無鄰菴(むりんあん)(京都市左京区)だ。山県有朋の別荘として1894~96年に造営された。

 東山を借景とした庭園は、近代日本庭園の先駆者と言われる7代目小川治兵衛(じへえ)が手がけた。疏水から引いた水が庭園を流れる。指定管理者の植彌(うえや)加藤造園の主任学芸員・重岡伸泰さんによると、山県は池ではなく、流れる水を用いた庭園を好んだという。

 今回、国重要文化財に指定されることになった「本願寺水道水源池」は、疏水からの水をためる施設だ。インクラインの近くにあり、東本願寺を本山とする真宗大谷派が管理する。

 同派によると、東本願寺は江戸時代、たびたび火災で焼失した。水源池は防火用で、1894年に自然石でつくられた。ここにためた疏水の水を、約4・6キロに及ぶ地下配管を通して東本願寺まで送った。老朽化が進み、2008年に送水を停止したという。

 疏水記念館の久岡さんは「疏水ができ、京都は都市としての機能を回復した。疏水がなければ、京都は単に古いものが残る場所になっていたかもしれません」と話す。

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