笑顔を見せる古山知恵子さん=新潟市中央区

 四大公害病の一つ、新潟水俣病の公式確認から31日で60年。新潟で唯一の胎児性患者である古山知恵子さん(60)はその歴史と共に歩んできた。自由にならない体。かなわなかった「想(おも)い」。やり場のない感情を抱きながら、強く生きてきた。これからも。

 「くるしかったことは自分と親がまわりの目(偏見)を気にしてたこと」

 記者がこれまでの60年について質問すると、古山さんはこの27文字を90秒ほどかけて紙に書いた。耳は聞こえるが、話せない。車いすに座り、比較的自由に動く右手で答えを書く。「長い60年だった?」の問いには「みじかかった」と記した。

 新潟水俣病が公式確認される2カ月ほど前の1965年3月27日に生まれた。新潟市の生家は、メチル水銀に汚染された排水が流された阿賀野川のそば。古山さんがおなかにいるとき、母は川の魚をたくさん食べた。

 生後4カ月の検査で高い値の水銀が検出された。半年をすぎても手を握りしめたまま。首もすわらなかった。4歳で水俣病と認定。両親も認定された。

 肢体不自由児の施設に入り、養護学校(現・特別支援学校)へ。学校を出てからは自宅ですごし、障害者の作業所に通った。家族をはじめ、周りにはいつも助けてくれる人がいた。「1人しかいない胎児性水俣病ということで、まわりの人がみてくれた。友人やしえんしゃの方々がいっしょうけんめいやってくれた」

心から愛する人がいる けれどかなわない

 1人で過ごす時は、小学生の…

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