日本高校野球連盟が長く取り組んでいることの一つが、投手の障害予防です。
第68回全国選手権大会(1986年)で天理(奈良)の本橋雅央投手が大会中にひじを故障しました。第73回(91年)には沖縄水産の大野倫投手が6試合で773球を投げ、右ひじを疲労骨折。最後の投球は山なりだったことを覚えています。
ただ、大会本部として、投球を止める規則がなかった。「エースが全試合を投げきることが美しい」という世間の風潮もあった頃でした。
プロ野球・阪神のチームドクターだった大阪大医学部の越智隆弘先生に手紙を出しました。「投手が大変な事態で心を痛めています」と書いたところ、「すぐに会おう」と電話が来ました。
けがを防ぐための検査と啓発活動が急務でした。93年、当時の牧野直隆・日本高野連会長、そして朝日新聞の土原剛・高校野球事務局長らと「この夏から検査をやろう」と決めました。第75回の開幕前、土原さんが朝日新聞の診療所にお願いして、X線室で130人を検査。投手の肩ひじ機能検査の始まりです。
同時に「ピッチスマート」という障害予防のビデオを作り、全国の学校に無償で配布しました。日本高野連が作った障害予防に関する資料を元に、全国9地区で指導者に対する講習会も開催しました。
94年春には、甲子園球場にX線室を設置しました。夏は地方大会が終わってすぐ全国選手権が始まります。時間がないのなら、開幕前に行われる甲子園練習の期間に球場で検査しよう、と。79年、米大リーグのドジャースタジアムを視察した際、球場内にX線室があった。それを参考にしました。阪神の三好一彦球団社長も越智先生の熱意に応じ、室内練習場の一角を改装して作りました。
03年に当時日本サッカー協会の川淵三郎会長が訪れ、「球場にX線室があるのか」と驚いていました。
兵庫県放射線医会から派遣された医師が午前6時から駆けつけてくれました。選手は緊張するそうです。「投げたらアカンと言われたら、どうなるんやろう」と。
2007年に始まったリニューアルを機にX線室はなくなりました。ただ、越智先生は「啓発の意味で甲子園で検査をやったけど、本来は都道府県で定着させないといけない」とおっしゃっていました。今、夏の地方大会で優勝したチームの投手には、全国選手権の前に病院で検査を受け、日本高野連が指定した様式の診断書を提出してもらっています。
また複数投手の育成を促すため、第76回(1994年)からベンチ入り選手を15人から16人に増やしました。その後、第85回(2003年)に18人、第105回(23年)から20人になりました。
けがは選手にとって不本意なこと。親や監督にも、なかなか言えない。指導者ら周囲の大人が、予兆を察してあげることが重要だと思います。
日本高校野球連盟の事務局長や理事などとして半世紀にわたり、運営に携わってきた田名部和裕さん(79)が、高校野球の歴史を振り返ります。
たなべ・かずひろ 兵庫県出身。1968年に日本高野連に入局。93年に事務局長に就任し、理事などを経て2021年に退任した。選抜大会の21世紀枠の設立、阪神・淡路大震災直後の選抜大会運営のほか、特待生問題やプロアマ規定の見直し、延長回数の短縮、投球数制限の導入など多くの改革に関わった。