広島市に原爆が投下された1945年8月6日。この日、阪神甲子園球場(兵庫県西宮市、当時は鳴尾村)付近も空襲を受け、スタンドは炎上、グラウンドには焼夷(しょうい)弾が無数に突き刺さったという。当時の写真を見ると、球場周辺は焼け野原だ。
西宮市の他、同県芦屋市なども被害を受け、後に「阪神大空襲」と呼ばれたこの爆撃。なぜこの一帯が狙われたのか。
米軍の資料によると、この地区を攻撃した理由として大阪や神戸の工業地帯に部品を供給する町工場が多いことを挙げている。
マリアナ諸島のサイパンなどを離陸したB29爆撃機約250機は、四国の東海岸を経由して阪神地区を目指した。
焼夷弾を中心に約2千㌧が投下され、「西宮市史」と「西宮現代史」によると旧西宮市では485人、戦後西宮市と合併した旧鳴尾村では125人が亡くなったという。
戦後、球場長を務めた川口永吉さんは、著書「甲子園とともに」に空襲時の様子を残している。
80年前の8月6日に空襲を受けた甲子園球場。その惨状はどのようなものだったのでしょうか。
「グラウンドには五、六千個…