開場100年を迎えた阪神甲子園球場で7日、第106回全国高校野球選手権大会が開幕した。
大会の風物詩の一つは、甲子園にこだまする校歌だ。最近は、ポップな曲調で軽やかなメロディーで、少し聴いただけでは校歌と分からない校歌が流れるようになってきた。
高校生に寄り添う歌詞をポップな曲調に乗せる校歌。いつごろから増えてきたのか。
甲子園に流れる校歌に詳しいライターの渡辺敏樹さんは「元号が平成になってから、校歌を地元ゆかりのアーティストに頼むようになったことが大きく関わっているのでは」とみる。
4年連続10回目の夏の甲子園に出場する明豊(大分)は大分県出身の歌手・南こうせつさん夫妻に校歌づくりを依頼した。
昨夏の甲子園に初出場し、校歌に地名などが一切入っていないことで話題になった高知中央の校歌。高知県在住のシンガー・ソングライター矢野絢子さんが作詞作曲し、2005年の入学式で初披露した。
南さんも矢野さんも、学校側から「校名は入れなくていい」と言われていたという。
甲子園に出場したことはないが、横浜創学館(神奈川)の校歌をミュージシャン小田和正さんが、笛吹(山梨)の校歌をレミオロメンの藤巻亮太さんが作詞作曲している。2人はいずれも地元出身で、00年代以降に制作した。
女子校だった学校にもポップな歌詞の高校が目立つ。
済美(愛媛)は02年に共学になった。学園歌「光になろう」は、歌詞の「『やれば出来る』は 魔法の合いことば」で知られる。
永井康博校長によると、同校の教員が01年に作詞作曲した。作詞をした元教員は「従来のどこにでもあるような校歌は創らない。21世紀にふさわしく、どこまでも明るく、どんな時にも元気の湧いてくる歌詞を考えた」という。
野球部創部3年目で選抜優勝したこともあり、学園歌に多くの反響が寄せられた。入院している人から勇気づけられたと学校に手紙が届いたり、希望する人に学園歌のCDを約6千枚送ったりしたという。永井校長は「当時は斬新でびっくりしたけど、耳になじむほど元気が湧いてくる学園歌をつくってもらった」と話す。
05年に共学になった至学館(愛知)は、11年夏に甲子園初出場を果たした際、校歌「夢追人」が大きな反響を呼んだ。CD初版は5万枚で、動画サイトでの再生は現在200万回を超える。
歌のテーマになったのは、04年のアテネ五輪に出場し、銀メダルを獲得した女子レスリングの伊調千春さんと同級生の友情物語だ。男女共学になった05年に校歌になった。
夢を追い続ける人へのエールとかけがえのない友情を歌った校歌に、当時の岡大樹主将は「まさに自分たちのための歌だ」と話した。奥川渉校長は「本校に入った生徒を『夢追人』としている。校歌が本校を象徴する柱となっている」と話す。
今春の選抜で優勝し、今夏の甲子園大会にも出場する健大高崎(群馬)は01年に共学に。「Be together!」で始まる校歌はポップな曲調で話題になった。
一方で、昭和の時代につくられた斬新な校歌もある。1976年夏の甲子園で優勝した桜美林(東京)の校歌は「イエスイエスイエスと叫ぼうよ」で終わる。渡辺さんは「この校歌を聴いてショックを受け、校歌の世界に足を踏み入れた」と話す。
学園創立者が作詞し、「イエス、ノーのイエスで、はいはい逞(たくま)しうやってます」の意味を込めたという。
同校によると、優勝時には学校がある町田市の駅周辺の飲食店などで校歌がBGMとしてよく使われ、深夜ラジオにもリクエストが寄せられるほどの反響があったそうだ。
いつから、校歌が流れるようになった?
そもそも校歌はいつから甲子園で流れるようになったのか。
試合後に勝ったチームが本塁付近に整列し、流れる校歌を斉唱、センターポールに校旗が掲揚される――。この一連のセレモニーは、29年の第6回選抜中等学校野球大会(現・選抜大会)から始まった。
前年の28年、アムステルダム五輪の陸上女子800㍍で銀メダルを獲得した人見絹枝選手が表彰台に立ち、日の丸が掲揚されるシーンに感激したことが始まりといわれている。
選抜を主催する大阪毎日新聞社の社員でもあった人見選手は、甲子園でも勝利チームをたたえるため、試合後に校歌吹奏と校旗掲揚を提案した。
夏の甲子園で校歌が聴けるようになったのは、57年から。校歌吹奏ではなく、歌入りで校歌を流す校歌斉唱となった。
99年の選抜からは、各校の初戦に限り、二回の攻撃時にそれぞれの学校の校歌が流れるようになった。夏の甲子園もその年から踏襲された。