五日市憲法草案が発見された深澤家の土蔵。当時は檜皮(ひわだ)ぶきでかなり傷んでいたが修復・改修された=4月12日、東京都あきる野市、高橋純子撮影

記者コラム 「多事奏論」 編集委員・高橋純子

 東京・新宿から電車を乗り継ぎ1時間とちょっと、JR五日市線の終点、武蔵五日市駅に着いた。4月なかばは春うらら、秋川渓谷を目指すリュック姿の人々にまぎれて改札を出れば、濃い緑地に白抜きされた「東京憲法会議」ののぼりを手にした事務局長の田中章史さん(76)がでんと立っている。同会の創立60年を記念し、初めて企画された「『五日市憲法』に学ぶ 日本国憲法のルーツを求めて」ツアーに参加するのだ。

 1968年に発見された「五日市憲法」は、五日市で教師となった29歳の千葉卓三郎が起草した。1881年、大日本帝国憲法発布より8年も前のことだ。全204条の草案は、千葉個人の偉業と捉えるだけでなく、五日市という「場の力」に目を向けた方がより面白いと、マイクロバス内で説明を聞き、思い知る。

 木炭や林業で潤い、渋谷がまだ村だった頃にもう町として栄えていた五日市。千葉を全面的にバックアップしたのは豪農、深澤名生(なおまる)と長男の権八だ。深澤家には政治、経済、哲学、幅広い分野の翻訳書や新刊本がことごとく収蔵され、図書館のような役割を果たしていたという。

 自由民権運動が盛んで、「五日市学芸講談会」を組織し、講師を呼んで演説会を開いた。「我(わが)会員は倶(とも)に共に自由を開拓し社会を改良するの重きに任し百折不撓(ひゃくせつふとう)千挫不屈(せんざふくつ)の精神を同(おなじ)くするの兄弟骨肉」なる会の盟約にぐっとくる。骨肉好き。今で言うディベートを行う会もあり、深澤権八が書き残した「討論題目」には、女帝の可否、安楽死を認めるべきか否かなど、すぐれて現代的なテーマが列挙されていて驚く。

 昼食は、五日市郷土館の会議…

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