正直に書くと、2024年の大みそかは、頭がぐらぐらしていた。
テレビをつけると鮮やかな色合いの特別番組から笑い声が聞こえる。
チャンネルを変えても、変えても。
明日は能登半島地震から1年だというのに。
with NOTO 能登の記者ノート
能登半島を取材する記者が、自らの心の揺れを隠さず、むしろ前面に出しながら一人称で伝える連載「with NOTO」。これまでの記事はこちらです。
石川県輪島市に住んでいるからといって、自分が過剰反応しているのか。それとも、世の中にとってお正月はあの日を思い出すときではないのか。
もちろん、能登について骨太に伝えたり、やさしく寄り添ったりする番組が、いくつもあったことは知っている。
能登にだって、あえて笑ったり、これまで通りのお正月を過ごしたりしたいと考える人はたくさんいるだろう。
頭ではわかっているのに、気持ちのやり場がない。
これ以上ぐるぐる考えるよりも、まずは元日の能登を見て回るしかない、と思った。
早朝、白米千枚田へ
年が明けて1月1日午前6時半、夜が白み始めるのにあわせて、輪島市の白米千枚田に向かった。
山と日本海をつなぐように斜面に連なる1004枚の棚田。国内初の世界農業遺産に指定された「能登の里山里海」を象徴する存在として、多くの観光客に親しまれてきた。
雪のような、雨のようなものが時々舞う灰色の曇り空の下で、茶色い土の階段のようになった棚田はひっそりしていた。
地震で崩れた田んぼを「白米千枚田愛耕会」の住民たちが避難生活を送りながら修復し、なんとか120枚に苗を植えた。
9月に収穫を迎えたが、その後の豪雨で土砂がなだれ込み、あぜが崩れ、さらに大きな被害を受けた。地道な修復作業は今後も続く。
空と同じ灰色の海から荒い波が打ち寄せ、ゴーと風の音が鳴っている。
「日の出はダメですね」
市内の仮設住宅からちょっと様子を見に来たという中島大樹さん(45)が、淡々と言った。
昨年の地震で自宅が壊れ、仮設住宅に入ったが、9月に能登北部を襲った豪雨でその仮設住宅も床上浸水。12月にやっと修復が終わった仮設住宅に戻ってきたという。
仕事はコンピューターのエンジニア。輪島市でなくても働ける。家を再建するかどうか迷っている。
「将来というか、生活再建の道筋が立つ年になってほしいですね。若い世代が生活し続けられるような施策も必要だし、しっかり復興してほしい」
朝のうちに行っておきたい場所がもう1カ所あり、車で東へ向かった。
途中で雲間から空が見えてき…