関門海峡を望む山口県下関市の春帆楼(しゅんぱんろう)。ふぐ料理で有名なこの老舗料亭は130年前の1895年4月17日、歴史の舞台となった過去がある。
明治維新後、初の対外戦争である日清戦争で日本が勝利し、清国から日本への台湾割譲などを定める日清講和条約(下関条約)がここで結ばれたのである。
当時の建物は半世紀後に空襲で焼失したが、隣接する日清講和記念館は戦火を免れた。館内には講和会議に使った部屋が再現され、日本代表の首相・伊藤博文(1841~1909)や、清国代表の李鴻章らが使ったイスやテーブルに観光客が見入る。
記念館や春帆楼には台湾の人もしばしば訪れる。台湾割譲が決められた現場を見学に来るのだ。
「台湾人にとっては悲しい場所です」
元台湾副総統の呂秀蓮(リュイシウリエン)(81)は取材にそう語った。
【動画】台湾元副総統の呂秀蓮氏のインタビュー=大室一也撮影
春帆楼を2度訪れた呂は、「悲しい」理由を二つ挙げる。朝鮮半島の支配権争いで起きた日清戦争に台湾は「関係がない」こと。台湾の運命を決める講和会議に「台湾の代表がいなかった」ことだ。
日本を代表して会議に臨んだ伊藤は幕末、長州藩の下級武士だった。
「台湾をゆく 明治維新から敗戦まで」 (1)伊藤博文
長州藩・山口県出身者が関わった日本の台湾統治を振り返る連載。1回目は伊藤博文首相が初の植民地を手にした経過をたどります。
そのころ、欧米列強は軍事力…