自身が営むお好み焼き屋の開店の準備をする高春子さん=2025年4月、大阪市生野区、中野晃撮影

 記者は高春子(コチュンジャ)さんと、10年ほど前に出会いました。

 多くの在日コリアンの人たちが暮らす大阪の猪飼野(いかいの)。朝鮮半島の分断後初めての南北首脳会談が開かれた2000年ころから足を運ぶようになったかいわいの一角で、お好み焼き屋さんを切り盛りしていました。

 大阪生まれで、日本の戦争が終わる頃には朝鮮半島南西の済州島(チェジュド)で暮らしていた春子さん。折に触れ、「済州4・3」と呼ばれる日本の植民地支配や戦争と地続きの惨劇について、話を聞いてきました。

 幼少のころは「はるちゃん」と呼ばれていた春子さんが、島で目にした虐殺の記憶を語り始めたのは、還暦を過ぎてから。

 戦後80年、日韓国交正常化60年の節目の年に、その半生の語りから、歴史の一端を見つめます。

「虐殺の島に生きて 春ちゃんの済州4・3」 デザイン・山田英利子

「はるちゃん」碑の名に浮かんだ姿

 私の名前は、高春子(コチュンジャ)といいます。

 日本が戦争をしていた時に大阪で生まれ、今年の7月で84歳になりました。大阪市内の今里(いまざと)で娘2人とお好み焼き屋をしています。

 両親の故郷は済州島です。私も日本の戦争が終わる年に島に行って、しばらく住んでいました。

 今年も4月3日にあわせて済州島に行ってきました。「済州4・3」から77周年の犠牲者追悼式に出るためです。

 おばあさんとおじさんの名前が刻んである碑も見てきました。

 手を合わせて拝むと、丸顔でやさしかったおばあさんや、「はるちゃん」と呼んでおんぶしてくれたおじさんの姿が、目の前に浮かびました。

「済州4・3平和公園」に並ぶ行方不明犠牲者の碑石。朝鮮戦争中に韓国の官憲に連行され、遺骨が見つかっていない人もいる=2025年4月3日、韓国・済州島、中野晃撮影

 1945年8月15日、日本の敗戦で植民地支配が終わった朝鮮半島。間もなく、北緯38度線を挟んで南側を米軍、北側をソ連軍が分割占領した。米軍政下の済州島では官憲の圧政が続き、デモ隊への発砲で死者が出た。
 48年4月3日、祖国の分断につながる南朝鮮の単独選挙反対を掲げた武装勢力が蜂起し、警察などを襲撃。軍警が始めた討伐は、韓国の初代大統領となった李承晩(イスンマン)が11月に敷いた戒厳令で残酷さを増し、大勢の島民が虐殺された。50~53年の朝鮮戦争の時期まで続いた一連の惨劇を「済州4・3」と呼ぶ。

 4・3のことは私もはっきりと覚えています。交番の近くにずらりと並べられた死体。銃で撃たれて倒れる人の姿。焼けてしまった学校。忘れることはできません。

 追悼式に行くのは、亡き母の代わりにという思いからです。

 4・3で母は、自分の母親と…

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