前ミャンマー大使の丸山市郎さん。東京・高田馬場でミャンマーの物産品を扱う店に行き、話を聞いた=2025年4月4日、東京都新宿区、相場郁朗撮影

 外務省入省は1978年です。志望言語を第6希望まで書かされました。英語、フランス語のあと何を書けばよいかわからず、何を書いたかも忘れてしまいました。人事課長との面談で「ビルマ語(ミャンマー語)」と言われた。書いた覚えはなかったが、人事課長は「自分でビルマ語と書いているじゃないか」。絶対にうそだと思い「やったことないし、できないです」と言ったら、「じゃあお前の席はないぞ」と言われました。

 仕方なく従って、神田の書店でビルマ語辞書を買いに行きました。丸っこい字が並んでいてこれは無理だと思いました。

 丸山市郎さんはミャンマー専門官として同国駐在が通算5回27年間に及びました。昨年9月まで駐同国大使を務め、退官しました。アウンサンスーチー氏らとのやりとりを振り返ります。

 翌年、ヤンゴン外国語大学に留学しました。留学生は私1人でした。外国人にミャンマー語を教えた経験のないヤンゴン大学文学部教授とマンツーマンの授業。入省同期が米国や英国のきれいな大学で楽しく学んでいるという話が耳に入ってきました。当時のミャンマーは、ネウィン(大統領)の社会主義経済下でなにもない時代です。私は全く異なる環境でした。

ビルマ語で書かれたミャンマーの教科書

 住んでいたのは裸電球1個のホテルの部屋。ぜったいにすぐに辞めて日本に帰ってやろうと思っていました。持ってきたスーツケースに荷物を入れっぱなしにしていました。

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