濃い霧のなかで船体が大きく左へ傾くと、欄干から手が離れた。セーラー服姿のまま冷たい海に投げ出され、沈んだり浮き上がったりを繰り返した。
「怖さに気づいたのは、ずっと後からでした。まだ子どもでしたから」
高知市の和田智子さん(84)は今年3月、14歳の時に遭遇した「紫雲丸」沈没事故の記憶を記者の前でたどった。家族やごく親しい人以外に体験を詳しく語るのは初めてという。
1955年5月11日朝、高知市立南海中学3年生だった和田さんは、修学旅行中に高松桟橋(高松市)から旧国鉄の宇高連絡船、紫雲丸(1480トン)に乗船した。乗員・乗客計841人。行き先は、大阪方面に向かう列車が待つ宇野(岡山県玉野市)だった。
濃霧の瀬戸内海に「どーん」という衝撃音が響き渡ったのは、出港16分後の午前6時56分。紫雲丸は、対向してきた貨車航送船「第三宇高丸」(1282トン)と衝突した。
仲良しの同級生、光国千恵さんらと甲板のベンチで朝食のお弁当を食べようとしたときだった。「船沈むんやと」と誰かの声が聞こえた。その後の記憶は、途切れ途切れだ。
紫雲丸が左舷を下にして横転し、沈没するまでわずか4、5分。和田さんたちは救命胴衣もつけられないまま、海に投げ出された。
「人間として思い出したくないこと」
生死を分けたのは、わずかな差だった。
和田さんは何度も海中に沈ん…