Smiley face
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阪神・淡路大震災で、15歳で亡くなった藤田依子さん=2024年12月18日午後7時2分、兵庫県播磨町、筋野健太撮影

 1995年1月16日夜。当時小学6年の藤田貴子さん(42)が、神戸市長田区の自宅の2階で勉強を終えて階段を下りると、ラジオが聞こえた。

 1階では、姉の依子さん(当時15)が布団に潜り、枕元のラジカセに聴き入っていた。流れていたのは、姉が大好きなSMAPの新曲。

 日頃から姉にSMAPを勧められていたが、あまり興味がなかった。

 いつも寝ている2階に戻ろうと、声をかけた。「わたしもう寝るね。おやすみ」

 「ちょっとちょっと。いい曲やねん。聞いてや」と姉に引き留められた。

 「ふーん。あっそう」と返して階段を上った。

潰れた1階、そこには祖母と姉

 阪神・淡路大震災からの30年間。SMAPの曲が流れた時や、「姉」という言葉が友達との会話で出た時。貴子さんは、この場面を何度も思い返してきた。

 大好きな姉との最後の会話だからだ。

 姉との会話の翌日早朝。ドーンと、下に打ちつけられるような衝撃があった。貴子さんは状況が理解できなかった。

 隣室の両親と、木造2階建ての自宅1階に下りようとしたが、父は「どないなってんねん」と声をあげた。姉と祖母が眠る1階がほぼ潰れ、階段もなくなっていた。「依子が、依子が……」。祖母の声がした。父が祖母を引っ張りあげ、2階の窓をこじ開けて外に出た。辺りはまだ、真っ暗だった。素足のまま、祖母と避難所の中学校に向かった。

 夜。両親と遺体安置所の高校の体育館まで歩いた。両親の悲壮な表情を覚えている。多数の遺体が並ぶ体育館で、毛布にくるまった状態の姉と対面した。

 姉は自由奔放で明るく、いつもみんなの輪の中心。引っ込み思案で人見知りな自分とは正反対だった。大好きな姉にくっついて歩き、「金魚のふん」と周囲に言われた。

 だからこそ、その死を受け入れられなかった。涙も出なかった。地震後、心にふたをして、姉について考えないようにした。ただ時々、どこかでまだ姉は生きているだろうという気がした。これから先、姉と一緒にしたいことを考えていた。

「話しても分かってもらえない」 泣けたのは数年後

 姉の死について涙を流せたの…

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