1985年8月12日、日本航空のジャンボ機123便が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、520人が犠牲となった。機体後部の圧力隔壁の修理ミスが、単独機の死者数としては今も世界最悪である事故につながった。
あれから40年。事故を知らない世代が増える中、航空史上、未曽有の大事故を国の調査報告書や、犠牲者が機内で残した「最期の言葉」からたどる。
機内に響いた「爆発音」
午後6時24分ごろ、爆発音とともに機体は大きく揺れ、操縦が利かなくなった。客室では天井から酸素マスクが落下し、機体は乱高下しながら飛行を続ける。
この爆発音は、尾部にある「圧力隔壁」が破断した音だった。隔壁が壊れたことで、客室の空気が2~3平方メートルの穴から一気に吹き出し、内側から爆風のような力が働いた。その衝撃で、垂直尾翼や操縦に必要な油圧配管が同時に破壊された。
なぜ圧力隔壁が損傷したのか
事故の原因となったのが、7年前の「しりもち事故」で損傷した圧力隔壁だった。修理時には米ボーイング社が正式な補強方法を示していたが、現場では指示と異なる手順で施工されていた。
交換部品と既存部分を重ね合わせる部分の寸法が異なり、接合部に差異が生じた。補強のための接ぎ板(プレート)を挟む必要があったが、処置が不完全だったため、隔壁の強度は設計時の約70%にまで低下していた。
操縦不能となった機体は、その後どこへ向かったのか
操縦不能となった機体は、その後どこへ向かったのか。記録された44分間の飛行経路と、最後まで続いた32分間の音声記録が残されている。
乗員・乗客の年代構成
520人が犠牲となったジャンボ機内には、生後3カ月の乳児から80代の高齢者まで、幅広い世代の乗客が搭乗していた。お盆の帰省や夏休みの旅行で家族連れも多く、空席は31席と、ほぼ満席状態で、生存者4人はいずれも後部に座っていた。
ジャンボ機が墜落した御巣鷹の尾根からは、カバンや財布、時計、子どもの物と思われる人形など、数千点にも上る遺留品が見つかった。いまもまだ、2千点以上が持ち主不明のまま保管されている。
その中には、座席の紙袋や手帳に記された「遺書」もあった。機体に異常が起き、わずか30分余りの間、揺れる機内で残した最期の言葉は、事故の悲惨さや「空の安全」の大切さを私たちに投げかけている。
回収された遺留品から、そこに書かれた言葉などとその座席位置を紹介する。520人に、それぞれの人生があった。
あの日から40年。事故を知る世代は減り、日本航空の現役社員でも、事故時に入社していたのは全体のわずか0.1%の17人にとどまる。
一方で、世界各地で航空事故は絶えず、国内でも昨年1月に羽田空港に着陸した直後の日航機が海上保安庁の航空機と衝突する惨事が起き、パイロットの不適切な飲酒事案のほか大事故につながりかねないインシデント事案が続く。
40年という節目を迎え、犠牲者を悼むとともに、そこから何を学び、教訓をどう生かすかが、いま問われている。
遺族らで作る「8・12連絡会」代表の美谷島邦子さんは、こう訴え続けている。
「安全対策に終わりはない。安全は、過去の事故の被害者や家族の思いの積み重ねの上に成り立っている。その思いを無駄にしないでほしい」
A-stories「日航ジャンボ墜落事故 御巣鷹40年」
1985年8月12日、日本航空のジャンボ機123便が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、520人が犠牲となりました。単独機としては今も世界最悪の事故から40年。遺族や元日航社員らの歩みをたどります。