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つむぐ 被爆者3564人アンケート 日開一馬さん(86)

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常連客の加藤俊三さんの髪を切る日開一馬さん(右)=2025年5月22日、広島市南区、上田潤撮影

 交差点の角に立つ白塗りの建物は築100年近くになる。80年前の原爆投下も持ちこたえた広島市南区の「赤玉理容院」だ。日開(ひがい)一馬さん(86)は、父が戦前に始めたこの店で妻、息子とともにはさみを握っている。

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現在の「理容赤玉」(白い建物)=2025年5月22日、広島市南区、上田潤撮影

 80年前の8月6日朝、日開さんは6歳。店とつながる自宅の縁側に座っていた。

 突然、店が大きく揺れた。「地震が来た」。とっさにそう思ったという。天井が落ち、店内の鏡も粉々にくだけた。

 足の震えを抑えながら店の前に出てみると、市中心部から赤黒い雲のようなものが、もくもくと立ち上るのが見えた。

 その方向からやがて何十人もの人々が逃げてきた。やけどして男女の別もわからない状態で血を流している人もいた。近所の広場は遺体の焼却場となった。腐った何かが焼けたような、独特の臭いが立ちこめていた。

 爆風で建物が傾き、屋根からロープをかけて固定する応急処置をした。壁に打ち付けて補強した木材はいまも残る。

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被爆後に撮られた「理容赤玉」。爆風で傾いた長屋を材木で支えている=日開一馬さん提供
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住居部分の台所には、爆風で傾いた建物を補強した材木がいまも残る=2025年5月22日、広島市南区、上田潤撮影

 兵隊に出ていた父が広島に戻って店を再開したが、貧しい暮らしだった。小学生だった日開さんは栄養失調で一時、左目が見えなくなった。高価な注射を打つため、店の椅子や鏡が差し押さえの対象になった。10代で日開さんも父を手伝うようになり、後を継いだ。

 近くの理髪店で働く妻と結婚し、2人の子をもうけた。だが、健康不安はつきまとった。同業者が60代で白血病を患い他界すると、「今度はわしの番か」とおびえた。「いつ後遺症が出るか、いまもびくびくしながら生きています」

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常連客の加藤俊三さんの髪を切る日開一馬さん(左)=2025年5月22日、広島市南区、上田潤撮影
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日開一馬さんのアンケート回答の一部

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【3社合同企画】つむぐ 被爆者3564人アンケート

原爆投下から80年。朝日新聞、中国新聞、長崎新聞の3社は合同でアンケートを行いました。被爆者たちが私たちへ託した言葉をみる。

 店は爆心地から2.5キロ…

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