2022年8月、珠洲市に戻った呑田喜三代さん(左から3人目)を、妻の順子さん(同2人目)や次男の真太郎さん(左端)ら家族が訪ねたときに撮影した写真=真太郎さん提供

 「おとんは、帰ってよかったんちゃうかな」

 6月10日、石川県珠洲市の粟津地区。地震でがれきと化した家屋を前に、隣にいた次男がつぶやいた。

 「そうかもしれんな」

 大阪府から訪れた呑田(のみだ)順子さん(77)は震える声で答えた。

 がれきとなった家屋は、夫の喜三代(きそよ)さん(当時75)が、2年前に大阪から1人で移り住んだ自身の実家。喜三代さんはここで被災し、亡くなった。

 281人が亡くなった能登半島地震の発生から7月1日で半年。あの人は、もういない。けれど、残してくれた記憶や思いは、消えることなく継がれていく。

 喜三代さんは、長男として珠洲市で生まれ育った。高校卒業後、大阪の建築会社に就職。働きながら夜は大学に通った。

 仕事ぶりは丁寧で、職場の同僚だった順子さんは「口下手やけどまじめ」と感心していた。やがて2人はひかれあい、3人の子どもが生まれた。

 喜三代さんはその後、独立して工務店を立ち上げ、建てた家の修理を材料代だけで請け負うなどして評判を得た。順子さんは「いつも仕事一筋の人だった」と振り返る。

 そんな夫が2022年5月、前触れもなくつぶやいた。

 「能登に帰るわ」

 70歳を過ぎてひざを痛め…

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