《奔放な言動で知られた》
10代後半でデビュー後、対談した年配の知識人男性に「ハゲとデブともも引きをはくおじさんは嫌い」と言ったら、マスコミに「生意気」「小悪魔」とレッテルを貼られた。父がその三つとは無縁だったし、年頃の女の子なら当然よね。松竹専属でもマネジャーはつかず、出演料の交渉も自分。無防備に何でも話す私はマスコミには格好のターゲットだったと思う。
《1964年は主演映画2本が3月に同時公開され、年間契約CM5社などと人気絶頂に》
あまりに忙しくて息苦しかった。いつもカメラに狙われ、新聞や雑誌にはうそばっかり書かれ、自由がないの。仕事は真剣にやっているけど、写真写りがいいだけと自覚していた。父と兄は映画会社に、姉は放送局に勤めてて、いわば業界の裏方。そんな家族は、私を俳優と認めていなかったしね。
《5月、仏カンヌ国際映画祭へ》
オリンピック準備に沸く東京も大嫌い。実は、映画ロケ中に上野駅で見た集団就職の風景がショックだった。自分と近い年の子たちが売られるように地方を出て、工事ばかりさせられている。高度成長期に人手は必要だろうけど、許せなかった。上昇志向の男たちの必死な顔もうっとうしくて。
そんな時、東京・六本木のイタリアン「キャンティ」を営む川添浩史さんがある映画の宣伝でカンヌ入りするので一緒に、と誘ってくれた。主演した「乾いた花」も非公式招待作品で、JALのエコノミーシートで一人、初めての海外旅行に出かけた。
映画祭では毎晩、着物姿でパーティーへ。カトリーヌ・ドヌーブがゴダール監督とかと真剣に議論してて、お人形扱いしかされない「日本の女優」との違いに驚いた。
その後はパリにしばらく滞在し、語学学校へ入った。この時、俳優を辞めるつもりだった。
《1964年後半、俳優を辞める決意でパリで過ごした》
フランスは自由で心地よく、ある男性から「人生で大事なのは今日誰と食事し、何を着て、誰と夜を過ごすか」と教わった。出世ばかり考える人間は愚かだと。カフェの小型白黒テレビが東京五輪を映してた。オートクチュールのドレスをあつらえ、毛皮のコートを買い、デビュー4年でためた大金を使い果たし、別の人生に踏み出すつもりだった。現地の有名ブランドとライセンス契約して服や小物を輸入する商売とか。
俳優の加賀まりこさんが半生を語る連載「媚びない、群れない」。全3回の2回目です。(2025年8月に掲載した「語る 人生の贈りもの」を再構成して配信します)
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