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理科教諭の玉野寛子=2024年2月16日、福島県川俣町の町立川俣中学校、斎藤徹撮影

 福島市立福島第四中学校の理科教諭、玉野寛子(45)は13年前、震災と原発事故の渦中にいた。

 太平洋を望む高台にある相馬市立磯部中学校は、3月11日が卒業式だった。式が終わり職員室で事務整理をしていた午後、大きな揺れが襲った。生徒を校庭に避難させた後も余震が続き、周辺住民が避難してきた。

 海から異様に高い波が押し寄せるのが見えた。直後にバリバリというすさまじい音が聞こえてきた。津波が海沿いの家屋をのみ込んでいる音だと知ったのは、ずいぶん後になってからだった。帰宅した生徒6人が犠牲になった。

 自宅アパートは津波被害を免れ、当時3歳の長男も無事だったが、翌日、東京電力福島第一原発が爆発事故を起こした。

 おなかには2人目の子どもがいた。どれほどの量の放射性物質がどこに飛散したのか、情報はなかったが、放射線が危険だとは、もちろん知っていた。同僚教員の勧めもあり、家族で実家の飯舘村に避難した。

 故郷には雪が降っていた。のちに、飯舘に滞在した数時間は北西の風に流された放射性物質が雪とともに大量に地表に降り注いだ時間帯だったと知った。

 福島市、宮城県名取市と避難を続け、相馬市に戻った。避難指示は出ていなかったが、日々の生活では、外に洗濯物を干さず、水はペットボトル入りのものを飲んだ。子どもは外で遊ばせなかった。「被曝(ひばく)から身を守るための対策」を実践した。

子どもたちが前を向いて生きていくために

 5月に産休に入り、次男の出産を経て、翌12年4月、教壇に復帰した。

 理科の授業では放射線を教え…

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