実直で、忠実だった官僚は、80年後に「ヒーロー」になっていた。わかりやすい「美談」の力学に、どう向き合うべきか。
太平洋戦争末期の1945年5月下旬。沖縄本島に上陸した米軍が、日本軍が司令部を置く首里(現・那覇市)に迫っていた。
県庁機能を移した洞窟「県庁壕(ごう)」(那覇市繁多川(はんたがわ))の中で、逃げるよう命じられた女性職員が食ってかかる。
「命なんて、もうお国に捧げています」
そのほほを、主人公の知事が平手で張り、言った。
「生きろ、生きてくれ。生きて家に帰るんや」
2022年に公開された映画、「島守の塔」の一場面だ。
知事の名は、島田叡(あきら)。当時の知事は官選の内務官僚で、大阪府内政部長だった45年1月、米軍上陸目前の沖縄への赴任を命じられた。
日本軍は「本土決戦」の準備の時間を稼ぐため、沖縄でできるだけ持久戦を続ける方針だった。赴任した島田は、食糧確保と住民の疎開を県の重要課題とする。自ら台湾へ渡って米を確保する交渉にもあたった。
県庁壕の近くに住み、10年以上語り部として案内する柴田一郎さん(81)=那覇市=は、島田に特別な思いを抱いてきた。
島田の働きで、10万、20万もの県民が救われた――。「島田知事は住民の犠牲を増やさないため、絶対だった軍の方針に反対することもあった。そう紹介してきました」
だが今、その「島田像」が揺れている。
45年3月下旬に始まった沖…