今年、他界しましたが、母にはやはり、最初、伝えることができませんでした。血液のがんの一種、多発性骨髄腫にかかったことが3年前の5月に分かり、90歳という年齢でもありましたし、息子がこんな大病だと知らせる気持ちにはなれなかったんです。
母はロマンチックな世界が好きで、子供の頃から「ロミオとジュリエット」などシェイクスピア作品の魅力を僕に伝えてくれました。その影響を受け、僕も幼い頃、アンデルセンなどの童話に夢中になったものでした。どこかセンチメンタルな感受性は、母から受け継いだようにも思えます。
亡くなった父は、幕末から続く医家の4代目でした。東京医大の勤務医を経て、松江の医院を継ぐことになりました。機械いじりが趣味で、ラジオや「電蓄」(レコードプレーヤー)など、秋葉原で部品を買ってきては自ら組み立てるほどでした。カメラは撮影だけでなく、現像も自分でしていました。
アメリカと日本を代表する怪獣が対決する「キングコング対ゴジラ」(1962年)が大ヒットした年。東京から松江に引っ越したのは、小学1年の3学期のことです。
転校早々の体育の着替えで、転校生の僕はブリーフ型の下着をはいていました。トランクスの級友たちに「三角パンツ~」とはやしたてられたのには傷つきました(笑)。東京では周りの子もみんなブリーフだったのですが。ただそこは子どものこと。最初はぜんぜん分からなかった出雲弁にも慣れ、宍道湖畔で友だちとメノウのかけらを探したり、ハゼ釣りをしたりして遊びました。
高学年になると、世界を席巻したザ・ビートルズに夢中になりました。激しくて、洗練されていて……。とにかくかっこいい。子ども心にしびれました。「ヘルプ/アイム・ダウン」のシングル盤は、小遣いをためて買いました。日本武道館での公演放送は、テレビにかじりついて見たものです。
ロックンロールの虜(とりこ)になった身としては、小学校卒業の謝恩会で、仲間と組んでばっちり演奏を披露せねばならない、と決心しました。大太鼓、小太鼓を音楽室から借りてきて、立てたほうきにシンバルをつるす。
僕はというと、大学生の叔母に手ほどきを受けたウクレレで、うまく弾けないまま童謡をロックで演奏する、というアイデアばかりのバンドでした(笑)。
「バンドやらこい(やろうぜ)」。楽器ができそうな人を知ると、その頃から口癖のように言うようになります。なぜ、あんなにロックに入れ込んだのか。そこには人に言えない屈託があったように思えます。
開業医の父は「○○の婆(ばあ)さんがあぶないらしい」と最後の往診に駆けつけていくことも珍しくありませんでした。そして両親は長男の僕が勉学に励み、医学部に進むことを切望していました。でも僕は父の背中を追えるのだろうかと感じていました。関心が、いつだって教室の外に向いていましたから。
中学時代は、ロックやフォー…