つむぐ 被爆者・柿本直人さん(95)、記者・堅島敢太郎(27)
被爆80年アンケートに、「被爆体験をつづる歌集を執筆中」と書いている男性がいた。あの日の記憶を形に残そうとする原動力はどこから生まれるのか。それが聞きたくて、取材を申し込んだ。
◇
15歳の夏。血と黒煙と死体で覆い尽くされた長崎の街で、自宅へとつながる道を探し続けていた。
防空壕(ごう)の前を通りかかったとき、横たわった男性が声をかけてきた。胸元に目をやると、大きなガラスが刺さっており、その表面はどろりと血で覆われていた。自分で抜こうとしたが、手が震えてうまく引き抜けなかったという。
「代わりに抜いて欲しい」
求めに応じて、真っ赤に染まったガラスに手をかけた。ぐっぐっと力を込めると、男性は痛みに悲鳴を上げて、気を失ってしまった。ガラスに手ぬぐいをかぶせてもう一度握り直し、力いっぱい引き上げる。ズボッと抜けると同時に、大量の血が一気に噴き出してきた。その瞬間、男性はふっと力が抜け、息絶えてしまった。
「父ちゃん!父ちゃん!」
駆け寄ってきた小学生ぐらいの子どもの声が響き渡る。
「死んだとばい」
近くにいた人の声にハッとした。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
そう繰り返すことしかできなかった――。
◇
「どうしようも、なかったですね。どうしようもなかった」
私(27)が取材に訪れた5月下旬、横浜市戸塚区の柿本直人さん(95)は、被爆直後を回想しながら、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。その声は、嗚咽(おえつ)交じりで震えていた。
被爆当時、旧制長崎県立瓊浦…