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第3次中曽根内閣の大蔵大臣に就任した宮沢喜一氏。プラザ合意を決断した前任の竹下登氏と握手を交わした。「豊かなときの日本がどうあらねばならないか」と対外不均衡の是正に熱意を示す=1986年7月

 歴史的な円安に悩まされる今の日本経済。だが、半世紀前の変動相場制移行後、日本経済は止めどない円高に苦慮し続けてきた。宮沢喜一氏はプラザ合意翌年の1986年に、古巣である大蔵省(財務省)の大臣に就いた。氏が残した政治行動記録(日録)の記述からは、経済通を自負する宮沢氏が意気込んで円高打開にあたったものの、非協力的な米国と金融市場の壁に阻まれ、あきらめの境地に至った様子がうかがえる。

  • 連載「宮沢喜一日録 戦後政治の軌跡」一覧

 戦後1ドル=360円で固定された円相場は、73年に変動相場制に移行。2011年には戦後最高値の75円32銭をつけた。急速な円高への転換点とされているのが、85年9月22日のプラザ合意だ。先進5カ国の蔵相が協調してドル高是正を進めていくことを決めた。

 合意は、日本時間では秋分の日だった。祝日にもかかわらず、自民党総務会長だった宮沢氏に、大蔵省は緊急で伝えている。日録には、「大蔵省よりNY(ニューヨーク)の5カ国蔵相会議のstatement(共同声明)届く」との手書きのメモがある。

 目につくのは、それに続く「米やっと介入を決心」との記述だ。

宮沢氏が不退転の決意で取り組んだ円高対策は、のちに「歴史の審判」を受けることになります。記事の後半では取材に当たった大日向寛文記者が今に通じる問題点を解説しています。

 列強国が高い関税で自国と植…

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